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症候群の女たち

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 大東亜戦争の敗戦いよって、連合国から押し付けられた、強制的な民主化への教育。そのために、今の国民は、アメリカによる押しつけの民主主義を勉強して大きくなってきたのだ。
 民主主義の基本は、
「多数決と、自由経済」
 ではないだろうか?
 多数決というのは、読んで字のごとく、
「多数派が少数派を制する」
 ということで、少数派は、悪いことだということで、その理由を深堀せずに、皆、多数派に従う。
 そのくせ、選挙などでは、
「俺の一票くらい、あってもなくても関係ない」
 と思っている。
 それも当然のことであろうが、逆に多数派と少数派が入れ替わるということは、ある意味天地がひっくり返りでもしないと、なかなかないことである。なぜなら、これまでの多数派が長く続けば続くほど、いくら悪だと思っても、簡単に政権交代が起こることは怖いと思うからだ。怖がりなくせに、細かいところで、意見を強く持っている。それが一種の集団意識というものなのだろう。
 肉体面では成長の早かった、まりえだったが、精神的な部分としては、さほどでもなかった。
 というよりも、
「晩生だった」
 といってもいいだろう。
 まわりには、
「耳年魔」
 と言われる子が多い中で、あまり性的な話には興味を持たなかった。
 その一番の理由としては、
「発育が早かったことで、まわりから、好奇の目で見られた」
 ということが大きかったのだろう。
 同学年の子はまだまだ、精神的にも肉体的にも子供だったので、見下すくらいだったにも関わらず、自分よりも上級生であったり、大人の男性の視線が痛いほど感じられたことが、まりえには大きかったのではないだろうか?
「まるで全裸を見られているくらいの恥ずかしさがあった」
 と思っているが、まさしくその通りだったに違いない。
 精神的には大人になっていないのに、身体だけが大人に近づいているので、自分でも持て余している身体を、まわりはまるで舐めるように見ているのだ。
 特に中学生の男の子からは、完全にいやらしい目で見られているということを感じていた。
 それは、自分が大人になってから分かったことであったが、
「男の子は、女の子に比べて成長が遅い」
 ということで、女の子に対して、コンプレックスがあり、焦りのようなものを感じていたのかも知れない。
 そんな中学生の男の子というと、彼らはその時のまりえとは逆に、
「精神的には大人に近づいていたが、子供はまだまだ子供だ」
 という、成長状態に、それぞれが、意識していたことだろう。
 中学生男子が、まりえを意識するように、まりえも、
「自分とは違う」
 という意味で、中学生男子を見ていることから、精神的にどのように見ればいいのかで戸惑っていたのだった。
 しかも、
「中学生のお兄さんたちは、私の身体しか見ていないんだわ」
 と思っていた。
「身体がこれだけ発達しているのだから、さぞや、精神的にも大人なのだろう」
 という目で見ていたとすれば、
「この小学生おそるべし」
 ということで、まりえに一目置いていたのだろう。
 しかし、まりえとすれば、精神的にはまったくの子供だったことから、
「まわりの目がいやらしい目でしか見ていない」
 と思い込み、まわりに対して、警戒心と、いやらしさに対する反発の目を向けていたに違いない。
 その視線が男の子に勘違いさせることになり、
「何だ。あの子は、あの挑戦的な目は、自分が大人だということを言いたいのだろうか?」
 と思うことで、
「あの子は生意気だ」
 という雰囲気で見られていたのかも知れない。
 そんな勘違いが、お互いの成長の正反対の性質をお互いに知らないでいることで、敵対心が抱かれるという、誤解を生んでいるのかも知れない。
 そんな状態だから、どちらも、歩み寄ることはできず、平行線どころか、どんどん、その差が広がっていくということになってしまうのだろう。
 それを思うと、この状態をまわりの誰にも理解されなかったというのも、皆当事者が思春期であり、自分のことで精いっぱいという時期だったのが、災いしたのではないだろうか?
 ということは、どうしても、大人になり切れていないこの時期を、誰も分かってくれないという悲劇が、まりえには、襲い掛かってきていることなのだろう。
「私って、そんなにまわりから敵対されなければいけないのかしら?」
 と、思い込んでしまった小学生の頃、
「しょぜん、男の子の視線というのは、自分にとって、考えれば考えるほど、アリジゴクに呑まれてしまうかのようではないか?」
 と、考えてしまうのだった。
 そんな、まりえが、大人になるにつれて気になっていることがあった。思春期になると、身体の発育とともに、精神的にも思春期になってきたのだが、それまでに、男性の視線であったり、理不尽なまわりの状況を意識するようになってきたことから、次第に中学時代は、バランスが取れていくことになった。
「やっと、精神が肉体に追いついてきた」
 というのか、まわりの男子の成長の遅さを顕著に感じるようになってきたのだ。
 高校生になる頃からは、好きになりそうな男の子もいたのだが、最期の一歩をどうしても踏み出すことができない。
「晩生だった精神状態が、影響しているのではないか?」
 と自分なりに分析をしていたが、その頃になると、まりえは自己分析をするのが、日課になってきた。
 まわりの人は、自分のことよりも、まわりを意識することが多いのに対して、まりえは、まわりよりも、自分を中心に考える方が強い女の子だった。
 だが、きっかけというのは、どこに転がっているのか分からないもので、まりえは、中学生になってから一度変わったと思っていたが、高校時代にも変わったのだ。
 それは、自分中心に考えるということが基準としてあるのだが、まわりのことも気になり始めた。
 それは、他の人のような、
「自分のことよりも、まず、まわりが」
 という意識ではなく、あくまでも、自分中心でありながら、
「まわりを意識するのではなく、気になってしまう」
 という少し弱気なところが出てきたのだ。
 そんな心の油断が隙になって現れたのか、まりえにとって、
「精神的な病気」
 ともいえるような状況が訪れるようになってきた。
 それは、すかさず心の隙間に入り込んできたものであり、ずっとまわりを見ていて、タイミングよく、その病気がまりえに気づいたのか。それとも、まりえの中で密かに根付いていた病気が、この時とばかりに、発症したのかのどちらかであろう。
 まりえとしては、後者なのだろうと思っているが、その時は、
「鬱状態のようなものではないか?」
 という漠然としたものだったが、その状況が限定的なものだっただけに、ある意味、気が楽になるものなのかも知れない。
 しかし、それが、いわゆる、
「精神障害としての、疾患」
 ということであれば話は変わってくる。
「自分のまわりの、親族や親友、彼氏などという近しい存在の人が、何かの組織の力によって、悪の手下と入れ替わっている」
作品名:症候群の女たち 作家名:森本晃次