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症候群の女たち

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 ただ、夢の中の自分をドッペルゲンガーだと考えてしまうと、
「自分を夢で見てしまうと、死ななければいけない」
 ということになる。
 となると、夢の中では、ドッペルゲンガーではないということになる。
 そう思うと、夢の中の主人公である自分は、
「自分が作り出した妄想ではないだろうか?」
 自分の妄想が別の人間を作りだすというこの発想は、
「カプグラ症候群」
 と似ているような気がする。
 自分が知っている人間に、知らない人間が入れ替わっているというものだからだ。
 一番知っているはずの自分が、実は知らない人間だったというと、
「自分に似た人」
 という発想になる。
 逆の意味での、
「フレゴリ症候群」
 というのは、
「まったく知らない人を見かけた時に、親しい誰かが変装していると、誤認すること」
 なので、ドッペルゲンガーとは、そもそものところで違っている。
 それを考えると、どちらの方が怖いのか
 と思えてくる。
 もう一人の自分がとにかく怖いという発想から考えると、カプグラ症候群の方が怖い気がする。
 もし、夢に出てきたのが、
「もう一人の自分」
 ではなく、自分になりすました他の誰かだと思うと、これは逆に、その人物が、フレゴリ症候群によって引き起こされた錯覚だとすると、
「ドッペルゲンガーは、カプグラ症候群と、フレゴリ症候群の抱き合わせの恐ろしさなのではないか?」
 と感じるのだ。
 この二つをそれぞれ抱えているのが、まりえであり、さくらだったのだ。それを思うと、この夢は、もう一人の自分ではなく、
「さくらとまりえが出てきたのではないか?」
 と考えるのだった。
 その日の夢の、
「もう一人の自分」
 というのは、果たして、まりえだったのか? それとも、さくらだったのか? ゆいかは考えていた。
 もう少し思い出してみると、その時見た夢というのが、自分が誰かの生まれ変わりだという認識を最近持ち始めたのだということを、思い知らされた時の感覚を思い出させるものに感じた。
「ということは、さくらだったんだ」
 と思われた。
「自分が誰かの生まれ変わりではないか?」
 という意識が強くなるにしたがって、
「それは、さくらではないか?」
 という妄想に駆られるようになっていた。
 それを最初に感じた理由が、最近のさくらの愛想笑いを見たからだった。
 時々、ゆいかは、誰彼ともなく、愛想笑いをするようになった。最初は自分でもまったく意識をしていなかったので、いつからするようになったのか分からないが、さくらが最近するのを感じると、さくらのそれと、同じではないかという妄想に駆られるのだった。
 そして、それを題材にした小説を書くようになると、当然のことながら、妄想が強くなり、さくらへの意識が次第に強くなった。
 だが、不思議なことに、さくらに対しての意識が強くなるに比例して、まりえに対しての意識も強くなった。
 最初は、小説内の登場人物として観察しているつもりだったが、そのうちに見え方が変わっていった。意識をし始めたのは、まりえが、さくらとはまったく正反対に近い人物だと感じたことだった。
 自分に自信がなくて、いつも人の顔色を伺いながら生きていて、愛想笑いをするに至る、さくら。自分ファーストで、
「他人と一緒では嫌だ」
 という感覚を持ち、そのくせ、まわりのことが気になって仕方がなくなってきている、まりえである。
 カウンセリングに通いながら、知り合った相手なのだから、当然、曰くがあっても当たり前である。
 だから、さくらも、まりえも、ゆいかのことを、
「普通ではない女の子」
 という目で見ているに違いない。
「私って、そんなにおかしいんだろうか?」
 と感じたのは、さくらの視線からだった。
 さくらの視線は実に冷たいもので、その視線の先に見えているのは、果たして自分なのかということを、ゆいかは考えた。
 確かに、さくらの瞳には、ゆいかが、上下逆さまに映っている。しかし、心で捉えたゆいかが映っているのかどうか、考えさせられた。
 というのが、瞳に映る姿が、
「上下逆さま」
 に映っているということだからだ。
 鏡に映る自分の姿は、左右対称ではあるが、上下が逆さまに映るわけではない。だから、今まで、ゆいかが意識してきた他人の瞳に映った自分は、上下逆さまになるということはなかったのだ。
 それは、小学生の頃から意識するようになったのだが、どうして意識するようになったのか、ハッキリと覚えている。
 小学4年生の時だったが、学校で、誰かが悪戯をした。それは、そこまで大きな問題になるほどのことではなかったが、当時の担任の先生が、クラスの女の子の給食費がなくなったといって騒いだ時のことだった。
 結局、あとで見つかることになったのだが、その時、疑われたのが、ゆいかだった。
 体育の授業前だったので、着替えで一番最後にいたからだというのがその理由で、
「まさか、そんなありきたりな理由だけで、先生が生徒を疑うわけ?」
 と感じたが、この先生も、思い込んだら、一直線の人だった。
 相手が何を思おうが関係ない。そんな人が先生だなんて、ちゃんちゃらおかしいというものだ。
 そんなゆいかを見る先生の視線は、実に冷たいものだった。
「人間が人間を見る目」
 というわけではない。
 人間を見る目というのは、もう少し、生気があるもののはずだと思うくらいに、死んだ目をしていた。
 そしてその時に瞳に映る自分を初めて意識していて、その姿が上下逆さまだったのをハッキリと覚えている。
「ああ、人の瞳に自分の姿が映る時というのは、上下が逆さまになるんだな」
 と感じたものだった。
 だが、友達が増えていくようになって、相手の考えていることを探ろうとして相手の瞳を見ることが多くなってきた。
 瞳の奥を覗くことで、相手の気持ちが分かってくるというわけではなかったが、その視線を感じる相手が、たまにビクッとなるのを感じると、
「私の視線の威力というのも、大したものなのかも知れないな」
 と感じるようになった。
 ただ、その時にも、自分の姿が相手の瞳に映るのを見るようになると、
「あれっ?」
 と感じたのだ。
 その理由として、相手の瞳に映った自分が、上下逆さまになっているわけではなかったからだ。
 ただ、相手の瞳に映っている自分が、
「本当に自分なのか?」
 と聞かれると、疑問でしかなかった。
 自分が写っているわけではないと思うと、思えなくもない。そういう意味では、上下逆さまの自分の方が、本当の自分のように思えるのだ。
 その理由について、
「最初に感じたのが、上下逆さまだったことだ」
 ということである。
 もし最初から逆さまに見えていなかったら、こんな感覚になっていることはなかっただろう。
 上下逆さまという感覚で思い出すのは、
「サッチャー効果」
 あるいは、
「サッチャー錯視」
 と言われるものである。
「上下逆さまに映っている絵や写真は、元々の正常な絵の感覚と違って見える」
 というもので、かつてイギリス首相だった。通称、
「鉄の女」
 と言われた、
「マーガレット・サッチャー」
作品名:症候群の女たち 作家名:森本晃次