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症候群の女たち

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 その人の考えていることがすべてであり、のちに逆らう人間が出てきても、少数派などありえないという政治体制になっていれば、あっという間に握りつぶされる。それすら、世間には分からずに、誰も知らない間に抹殺されることで、状況判断もできない世の中になってしまう。
 それを考えると、天邪鬼というのは、必要悪であり、少数派が握りつぶされるとしても、存在したということが大切なのだ、少数派として意見が残れば、今はよくても、今の多数派がいずれすたれてきた時、どこへ行けばいいかという考えは残ることになる。
 握りつぶされたとはいえ、握りつぶしたのは多数派だった自分たちだ。
「一度潰した相手を復活させることができるとすれば、自分たちしかいないではないか」
 という考え方が、出てくる。
 それは、天邪鬼の存在があったからだ。天邪鬼という言葉が残っていたからでもあるだろう。
 そういう意味で、その人が天邪鬼かどうかということも大切だが、天邪鬼というものを意識している人を探してみたいと思うようになった。
「天邪鬼というものの存在意義が分かる人」
 という観点で探していると、意外と近くにいるもので、それが、まりえだったのだ。
 まりえは、男子からも女子からも嫌われていた。それは、完全な僻みからで、彼女のかわいらしさに嫉妬しているのだった。
 まりえがそのことを分かっているのかは、まわりから見ていて想像がつかなかった。
 ただ、まりえのかわいらしさは、その中に、天邪鬼と言えるような「自分」を持っているからこそ、引き立つのではないかと、ゆりかは感じていた。
「この人なら、天邪鬼の本来の意味も分かっているのではないか?」
 とも思うくらいになった。
 だが、それにしても、ここまでまわりから嫌われるというのは、どういうことなのだろう?
 妬みや嫉妬程度のことで、まわりとここまで隔絶しているのは、それが、まりえのオーラに関係しているのではないかと思うのだった。
 だが、ゆりかは、自分のそれが、他の人のいう、
「可愛さ余って憎さ百倍」
 ではなく、むしろ、
「憎さ余って可愛さ百倍」
 ではないかと思えてきた。
 つまり、まりえに対して、自分では認めたくはないが、何かの憎しみがあるのではないかと、ゆいかは考えるようになった。
 まりえという女の子に対して、どんな憎さがあったというのか?
 確かに、可愛いというだけで、嫉妬の対象になっているということが許せないという感覚があったのは、事実である。
 しかし、その思いとは別に、
「自分自身が、まりえに嫉妬している」
 という感情があったことに気づいていなかったのだろうか?
 他の人の意思によって、自分の奥底に潜んでいる気持ちが打ち消されたかのようになり、さらに、自分が好きになったはずの人のことを、嫉妬していたと感じたくないという思いから、
「自分は嫉妬していない」
 と思い込んでいたのだ。
 しかし、それはあくまでも思い込みであり、嫉妬していないわけではない。
 そのため、その思い込みが、いつの間にか、無意識に、ストレスとなっていることはないだろうか?
 しかも、そのストレスを感じないことから、自分の憎しみを知ることなく、都合よく、余らせてしまい、可愛さが百倍になっているとすれば、都合のいいというのも、悪いものではないということであろう。
「こんなことを考えているから、自分のことも天邪鬼だなんて思うんだろうな?」
 と、ゆいかは感じた。
 まりえの場合は、可愛さの中に、自分を持っていうことでの凛々しさがある。
 男にとっては、その凛々しさが溜まらない魅力なのだろう。
 特に、マゾの男性は、女性から、いたぶられたいという意識があるからか、まりえのような女性に惹かれるのかも知れない。
 だが、相手が女性であれば、自分から、
「慕いたいと思うのではないか?」
 と感じるようになった。
 確かに慕っている感情は、ゆいかにはあった。では、まりえはどう感じてくれているのだろう?
 嫌がっている雰囲気はない。
「もし、これが男性だったら、どういう気持ちになるのかを考えてみよう」
 と思うと、
「癒されたいと思うのではないか?」
 と、ほとんど思案することなく感じたのだった。
「私にも男っぽいところがあるのかしら?」
 と思ったが、だとすると、まりえに惹かれるというのは、何かが違っているように思えた。
「まりえの男っぽさが、私の中に共鳴でもしたのかしら?」
 と考えた。
 同じ感覚を、自分が持っている必要はない。
「人間は、共鳴し合うことで、共有できるものがある」
 という考え方を持っている、ゆいかだからこその発想なのかも知れない。
 ゆいかにとって、まりえの存在が大きくなりかかっている頃、最初に知り合っていた、さくらのことを、半分忘れかけていた。
「私ってひどいわね」
 と感じたが、何がひどいのか、分からなかった。
 放っておいたことが悪いというのか? 
 どちらかというと、まわりから奴隷のように扱われていて、それでも、それを運命として受け入れようとしている、さくらを無視してしまっていたことに苛立ちを覚えるというのか?
 それとも、今はハッキリと分からないが、さくらの中にある目に見えないトラウマのようなものが、見え隠れしているのを感じるからなのか?
 最後の目に見えない見え隠れするトラウマというのは、まりえにも感じられた。
 まりえに対しては、
「彼女が表に出そうとしないのであれば、敢えてこっちから触れるようなことはしないようにしよう」
 と思ったのだ。
 しかし、相手が、さくらであれば、どうなのだろう? 気持ちを察して、救ってあげるような態度に出なければいけないということなのだろうか?
 ゆいかは、さくらの扱い方に、戸惑っているのだった。

                 さくらと、ゆいか

 あれはいつだっただろうか? 普段から妄想を抱くことが多いゆいかは、その日見た夢が怪しかったということを覚えている。
 どんな夢だったのかということでいえば、
「怖い夢だった」
 という意識が強い。
 基本的に、
「楽しい夢はほとんど記憶にないが、怖い夢は、鮮明すぎるくらいに覚えている」
 というものだと思っていた。
 怖い夢で、どんな夢を見たのが一番怖かったのかというと、
「もう一人の自分が出てくる夢」
 だったのだ。
 そのもう一人の自分というのは、夢の中なので、ドッペルゲンガーではないと思っている。
 ドッペルゲンガーというのは、あくまでも、同じ次元の同じ時間に存在している、
「もう一人の自分」
 だからである。
 そうなると、完全に妄想なのか、それとも、自分の中に存在している自分なのかである。
 ジキルとハイドなどでは、多重人格というテーマで、同じ自分であるが、まったく違う人格を持っているという発想であった。
 これは、ドッペルゲンガーではない。
 同一の身体に異種類の性格だからである。
 ドッペルゲンガーというのは、
「別の身体に、同じ性格がある」
 という意味ではまったく正反対ではないか。
 夢の中では、主人公として出演している自分と、それを見ている自分、違う身体だといえるのだろうか?
作品名:症候群の女たち 作家名:森本晃次