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症候群の女たち

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 日本の妖怪から、世界の妖怪まで、何巻にもまたがっていて、描かれている。その中で興味を持った妖怪もいたのだが、そのうちの一つが、数年前に世界的なパンデミックを引き起こした時に話題になった、
「アマビエ」
 という妖怪である。
 妖怪伝説というのは、似たような話が全国に伝わっているものが多いが、このアマビエ伝説というのは、熊本地区に残っている話が一番一般的であった。
 その地区に伝わっている話としては、江戸時代のある時代、数年に一度の飢饉に見舞われていた。
 そんな時、ある役人が、海を見ていると、そこに、不気味な妖怪がいたという。
「この村は、今後は栄えることになるが、もし飢饉などの問題が起こった時は、私の姿を描いて、それを他の住民に見せよ」
 ということを言い残したという。
 このアマビエという妖怪は、予言の神様として伝承しているのであったが、今回のパンデミックの復興シンボルとして、描かれることで、再度脚光を浴びることになった、いわゆる、
「善玉妖怪」
 と言っていいだろう。
 しかし、アマビエのようにいい妖怪ばかりではない。
 まりえが意識したのは、
「ドッペルゲンガーのような妖怪」
 であった。
 その妖怪は、
「トモカヅキ」
 という妖怪であり、海女さんにもっとも恐れられているという妖怪である。
 自分ソックリの姿の人が現れ、
「アワビを食え」
 と言われて、断ったりすると、そのまま海に引き込まれて殺されるという伝承が残っている。
 だから、海女さんは海に入る時、五芒星を形どったものを身に着けて入るようにしているという話を聞いたことがあった。
 実際には、もっと詳細にあるのだろうし、微妙に違うところもあるのだろうが、実際に伝承というのは前述のように、いろいろな地域に微妙に違う形で残っていたりするので、
「何が真相なのか?」
 ということになると、微妙だったりするのだ。
 それを思うと、以前、ある妖怪マンガ家が言っていた話を思い出す。
「妖怪というのは、その存在はなかなか人間に認知されないが、存在はしている。存在はしているが、見ることができないというところが、魅力なんだ」
 というようあ話だったと思う。
 だから、人間が勝手に解釈しているのであって、
「いい妖怪なのか? 悪い妖怪なのか?」
 ということも、その解釈で違うだけなのかも知れない。
 妖怪というものを考えた時、
「一体、妖怪と人間とは、いかに関わっているのだろうか?」
 と思った。
 その時頭に浮かんできたのが、前述の天界の話であったり、生まれ変わりというものであった。
 ゆいかは、自分のことを主観的に、
「生まれ変わりだ」
 と思っていたが、まりえの方は、客観的に、勉強心とでもいうのか、興味津々という意識で見ていた。
 だから、ゆいかの方は、
「自分に関係のありそうなこと以外は、あまり気にすることはなかった」
 のだが、まりえの場合は、興味を持てば、それがどんどん膨らんでいく。
 ある意味永遠と言ってもいいかも知れない。無限に広がる発想は、大げさにいえば、半永久的に続いていくもののようだ。
 だから、妖怪の存在をどのように解釈するかということを考えるのは、
「本人が妖怪をどのように、自分に取り込んで考えるか」
 ということに関わってくる。
 自分に都合よく解釈するという、楽天的な考えや、恐怖の代償として、あるいは、自分を戒める手段として考えるというのも、一つの解釈だといってもいいだろう。
 そんな妖怪を考えた時、自分の恐怖とさらに、恐怖を乗り越えた時の安心とが、境界として、そこに存在しているものが何なのか、それを考えるようにしている。
 ゆいかには、そのような考えはない。どちらかというと現実的だった。
 だから、絵画が好きである。自分で描くのも、見るのも好きだった。
 子供の頃から、よく親戚に人に連れて行ってもらって、美術館などに言っていたが、
「これの何がいいのかしら?」
 というのが、本音だった。
 自分の中で、絵画という芸術に対して、
「バランスと、遠近感が勝負なんだろうな?」
 という意識はあった。
 成長してからこの話をすると、
「子供の頃からそんなことを考えていたの? すごいわね」
 と言われたものだった。
 最初は、
「皮肉を言われている」
 と思っていたが、そうでもなかったようだ。
 というのも、現実的に物事を自分が考えているというのを自覚したのが、その頃からだったのである。
「皮肉というのは、あくまでも、自分では本心ではないと思った時に感じるものだ」
 と考えていて、
「これを自分では、本心だと思っているので、あながち皮肉ではないかも知れない」
 と感じると、自分にも芸術の感性があるのかも知れないと感じたのだ。
 芸術の感性については、中学生から持っていると思うようになっていたが、絵を描けるまでは考えていなかった。
 それが、実際に描けていると思うようになったのは、
「皮肉だと思わなくなった」
 その頃からだった。
 ゆいかが、まわりから言われることを、
「皮肉だ」
 と飛躍的に考えなくなったのは、芸術に一気に自分が近づいたことであろう。
 そこに生まれてきたのは、自信であり、自信が今度は行動力になった。そのおかげで、「皮肉かと思うようなことでも、皮肉とは本心で思わないようになった」
 ということであった。
 自分で絵を描いていて、
「どうして描くのが好きになったのかしら?」
 と考えたが、その理由が、
「目の前にあることを忠実に映し出すことが芸術だ」
 ということだった。
 すべてお芸術がそうであると思ったが、よくまわりを見渡すと、そうではない。
 むしろ、絵画のように、忠実なものは少ない。そこには芸術家の感性が、抽象的に描かれるもので、描かれたものは、想像力のたまものだといってもいいだろう。
 小説などの文学、そして、クラシックやポップスのような音楽、それらすべては、
「無から生まれるもの」
 であり、そこに原点があるとすれば、それが、
「作者の感性」
 ということになるのであろう。
 ただし、それぞれに法則のようなものがある。一種のルールと言ってもいいだろう。
 そのルールというのは、自分の中で完結するものではなく、その芸術に携わる人たちすべてに共通したものだ。
 そのタブーを破ってもし、作品を製作したとすれば、誰からも受け入れられない作品ができることだろう。
 だが、稀に、それを超越したような作品が生まれることがある、
 そんな時、初めて、芸術というものが、
「決められた枠などない」
 ということで、タブーがタブーではなくなることになるのであろう。
 ただ、長年タブーとされてきたことが破られるには、かなりのハードルの高さがある。芸術を生業にしている人は、一生を棒に振るような勇気が持てるかどうかというのが難しいところであろう、
 自分を犠牲にできる人などそうはいない。
 自分の感性を表に出して、それを認めてくれる人がいることを喜びとするのが芸術家なので、余計に芸術家というのは、
「自己中心的だ」
 と言われてしまうが、芸術家から言わせれば、
「それが個性だ」
 ということになるのだろう。
作品名:症候群の女たち 作家名:森本晃次