症候群の女たち
何か自分の中にいる自分を見ようとすると、そこには、真っ白な、霊魂が人魂となって光っているかのように見えるのだ。
それを見た瞬間に、ゾッとしてしまう。ゆいかのように、それ以上見ようとしないのだ。
あくまでも、
「自分の中に、妖怪が住んでいる」
と思っている。
しかし、それを他の人に悟られたくないという思いから、必要以上なオーバーアクションを起こすことで、自分の本性を覗かせないようにしようと思うのだ。
そんなまりえは、それが、
「自分の強さ」
だと思っていた。
本当に強い人間は、少なくとも自分の内面を必死で押し隠そうとはしないだろう。
それを思うと、自分のまわりの皆が、自分よりも弱いということが確定しているかのように思えてしまうのだった。
それが、自分に安心感を与え、その安心感を絶えず持っていないと駄目な性格にさせたのだ。
それによって、安心感を味わうことができなければ、永遠に苦痛が続いてしまうように思え、ここだけは、頑なな気持ちになることはなかった。
本当は誰かに助けを求めたいのだが、
「今の私であれば、誰も助けてくれるわけはない」
という、これは間違いのない発想を抱くことで、余計に、自分の考えに固執してしまうのだった。
これは、
「自分が天邪鬼だ」
ということを分からせるに十分だったのだ。
だが、この天邪鬼な性格は、自分では嫌いではない。逆に天邪鬼でなければ、自分を信頼することができず、ただ、何に頼ればいいのか分からないそんな存在になってしまうことで、ただの意固地な女の子なだけになってしまうことだろう。
二番煎じが嫌いで、人と同じことをすることを、余計に嫌うその性格は、
「嫌いになれれば本当は気が楽なのだろうが、嫌いになれないという、自分の本性が垣間見えるという強い意志の表れなのだ」
と思っていた。
だから、天邪鬼というのは、この本性からの派生であり、
「天邪鬼という言葉を、決して嫌ってはいけないものなのだ」
ということであった。
そんな意識を持っているまりえは、カウンセラーからすれば、
「一番の強敵」
であった。
カウンセリングに来る人は両極端で、自分にまったく自信がない人なのか、それとも、逆に、自信過剰になりすぎて、心に入り込むことすらできず、すべてをシャットアウトしている人なのかである。
自分に自信のない人は、自分の本性を分かっていない人が多い。だが、本性を知ろうとすると、自信がないことで、自分が考えたことを疑うことから入ってしまって、まったく信用できないのだ。
そんなまりえの最近の悩みは、
「ストーカー」
だった。
駅を降りてから、家までの間、20分くらい歩くのだが、明るいのは、最初の5分くらい、そこから先は、メイン道路から少し離れて、しばらく行くと、そこは、とにか暗いだけだったのだ。
住宅街の中にあるマンションが、まりえの住まいだった。中学に入ると、塾に行くようになったのだが、それは、まりえが行きたいと言い出したからだ。
中学1年生から塾というのは、親から、
「塾に入りなさい」
と言われるのであれば、分かるのだが、自分から言い出したというのは、どういう心境なのか分からなかった。
「友達が塾に行くから」
ということであったり、
「好きな火とが通っている」
などというような理由でもなければ、普通は考えられ会い。
「勉強ができない」
と言って、慌てる時期ではまだないし、さらには、
「友達が行くから」
という理由も考えにくい。
何しろ、まりえは、天邪鬼で、友達を作るよりも、一人でいる方がいいと思っている。だから、そんなまりえが、
「友達が行くから」
という理由は、最初から矛盾していることだったのだ。
好きな人という理由も少し違っている。前述のように、まりえは、晩生だったのだ。
晩生ということは、そもそも、好きになる相手がいないから晩生なのであって、
「好きな人ができたから」
という理由も矛盾している。
やはり、単純に、
「勉強ができない」
という焦りから来ているのだろうか?
ただ、まりえは、天邪鬼なのである。しかも、それを自覚している天邪鬼だった。
そんな、まりえが、中学1年生から、
「勉強ができない」
ということで、塾に通いたいなどと言い出すだろうか?
すべてが、矛盾に結びつく。
しかし、
「逆の逆は正」
と言えばいいのか、矛盾の矛盾は、正常な判断だといってもいいだろう。
そう考えると、まりえは、
「自分の天邪鬼を、天邪鬼として楽しんでいるのではないか?」
と思えるのだった。
まりえには、
「自分にないところはたくさんあるだろう」
という発想はあるが、
「自分に足りないところは、そんなにあるのか?」
と考えていた。
「足りないということは、少しはあるということで、中途半端にあるくらいだったら、ない方がマシであり、これから吸収するのに、邪魔になるばかりだ」
と考えるようになった。
「天邪鬼というものは、どこか節目を自分で見つけ、我を見直す時期を自覚することが大切だ」
と思うようになっていた。
まったくないものの方が、中途半端にあるよりも、まだマシだという考えが、天邪鬼の真骨頂であると思うのだが、それは、よくよく考えると、正論ではないだろうか?
若い連中が、答えを急ぎすぎて、思いついたことがすべて正しいなどという発想が生まれてくるのだ。
塾通いをするようになって、学校のある駅から数駅乗って、通うのだが、終わる時間は、午後8時、これから帰ると、9時近くになるのだ。中学生の女の子としては、少々危険ではあった。だが、最初の頃は、まりえも一切気にしていなかったのだ。
天邪鬼な性格というのは、基本強気である。虚勢を張る必要もなく、天邪鬼だという意識さえ持っていれば、自然と強気になっているのだ。
そんな強気な毎日だと、本当は疲れるはずだが、疲れを感じさせないということは、見た目は何ともないようだが、裏にまわると、結構きつかったりする。精神的な疲れなのか、それとも、肉体的な疲れなのか、自分でも分からないということで、勝手に、
「精神的な疲れだ」
と思い込まされる。
そんな時、またしても、
「自分の中の妖怪」
が顔を出しているような気がする。
それが、
「もう一人の自分なんだ」
と思うようになったのは、しばらく経ってからのことだった。
「妖怪が本当は自分だったのか?」
と考えた時、我に返ったような気がした。
妖怪が自分だと思った瞬間に、強気だった自分の正体が、妖怪だと思っていた自分だと気づくと、我に返って、ハッとしてしまったのだろう。
「自分の中に妖怪がいるのでは?」
と考えていた時、図書館で、妖怪図鑑のようなものを見た気がした。
それは、もちろん、本物の図鑑ではない。何しろ、実在のものではなく、
「想像上の動物」
だからである。
その図鑑というのは、昔から妖怪マンガの第一人者と呼ばれている人が書いた図鑑だったのだ。