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症候群の女たち

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 もちろん、見逃して、死産になってしまう場合も少なくはないが、それはその神の責任ではない。
「できるだけ、この世に生を受けさせるに越したことはないが、できなかったといって、この神に責任を押し付けるのは、酷というものだ」
 といえるであろう。
 死んだ魂が、彷徨わずに、幽界に行けるようにいざなうのも、神の仕事だ。死んだ瞬間から行き先が決まっていたのか、それとも、どこかで一定期間待機させられ、その間に神の世界で、どこにいくかということを審議されるのか、後者の方が、今信じられていることとしては大きいようだ。
 だが、実際は、
「神のみぞ知る」
 ということである。
「仕事」
 と、
「仕業」
 という言葉があるが、どう違うのだろう?
 何となく意味は分かる気がするのだが、あくまでもニュアンスという意味でだけだ、
「仕事というのは、しなければいけないことをすることであって、それだけに、無しと下手時に報酬が伴うものである」
 逆に、
「仕業というのは、自分がしたことや、行為そのもの、あるいは、ならわしのようなことであって、仕事のように、達成しても、何んら報酬はない」
 というものだ。
 別の言い方をすると、
「仕事というのは、誰かのためにすることであり、仕業は、単純に物事ができた結果であるということで、仕事の場合の誰というのは、自分であっても、全然問題のないことだといえるだろう」
 実際の言葉のニュアンスも似たようなものであるが、ただ、
「仕業」
 という言葉には、本来の意味の、曖昧さというよりも、何かの作為のようなものが感じられる。
「わざ」
 という読み方が、どうにも作為的な意味を感じさせるのかも知れない。
 そう考えると、人間界における、
「偶然」
 というのも、
「実は神が人間界に催すわざが、まるで偶然のように思わせることで、それを、神の仕業と考え、ギリシャ神話のようなものができ、逆にいうと、人間界に起こっていることで、不思議で理解できないことを、神による仕業ということにして、神というものを利用して、理屈づけようとしている」
 のかも知れない。
 ということになれば、神というものでさえ、その存在を利用されただけだということになるのではないだろうか?
 それを考えると、生まれてきたあ時に、他の人の死んだ魂が入り込むというアクシデントも、偶然という言葉を使えば、
 神の存在自体を、偶然という言葉で片付けることで、人間界にもたらされたすべての災いを、
「神のせい」
 として、責任転嫁ができるのだ。
 神として奉っておきながら、実は自分たちの理由付けのために利用するために創造されたのだから、神というのも、ある意味可哀そうである。神の存在を認めないということは、人間の都合のいい解釈の責任転嫁ができないということになるのである。
「神にならなくて、人間でよかった」
 と思う人も結構いるに違いない。
 このような生まれ変わりに関して、自分で悩んでいたのが、ゆいかだった。
 ゆいかの中には。自分の中に、
「もう一人の自分がいる」
 と思っていた。
 だが、そうは思いながら、自分ではないという意識も強かった。
 なぜなのかというと、
「自分よりも、自分のことをよく知っている」
 と思ったからだ。
 自分というものを普通であれば、鏡のような媒体がなければ見ることができない。だからこそ、
「自分でありながら、いや、自分であるからこそ、自分のことが見えてこない」
 と思っている。
 逆にいえば、
「まわりが自分を判断してこそ、自分の存在価値があるのではないか?」
 と考える自分がいる。
 これがきっと本当の自分なのだろう。
 だが、心の中を覗こうとすると、それ以上に、自分をブロックしている自分がいた。自分をブロックするなど、普通であれば、考えられない。中にいる自分が本当の自分ではなく、本当の自分にその存在を知られたくないという思いから来ているのではないかと思うのだった。
 ゆいかは、自分の中にいるのは、
「もう一人の自分なのか、もう一人ではあるが、自分ではない、何者かがいるのか?」
 ということで悩んだりした。
「ドッペルゲンガー」
 というものがあるが、あれは、もう一人の自分が、自分以外に存在しているということだ。
 つまり、その人物には実態があるということだ。
 だが、それをもう一人の自分だと認識してしまって、そのもう一人の自分を見てしまうと、近い将来、死んでしまうという言い伝えがある。
 これも、もし、神という存在が、人間に対してのいじわるから、そのようなことをしたのだとすれば、それこそ、
「パンドラの匣」
 における、
「パンドラ」
 のような存在ではないか。
 この話は、例のギリシャ神話の話で、当時人間界には、男しかおらず、苦労して生きていたのだが、その時、ゼウスから、
「人間界に、火をもたらしてはならぬ」
 という命令があったにも関わらず、プロメテウスは、人間擁護派だったので、神の国にある火を、人間に与えた。
 つまりは、その時代に、女だけではなく、火もなかったのだ。
 だが、そのとたん、人間界では殺し合いなどが起こったという。それを予期していたゼウスが危惧して下した命令をプロメテウスは破ったことで、
「プロメテウスには罰を、そして人間界に、災いを」
 ということいなり、人間界に使わされたのが、
「パンドラ」
 という、人間界初の女性だったのだ。
 つまり、パンドラは、人間界に災いをもたらすための人間界最初の女だということになるのだ。
 そんなパンドラが持たされたのが、
「災いの詰まった匣」
 だったのだ。
 実際に、それが放たれて、人間界は不幸のドン底に陥ったが、滅亡することはなかった。それは、匣の底に、希望のようなものが残っていたという説がある。
 これが何を意味するものなのかは、このお話では分からない。だが、ギリシャ神話において、ゼウスもプロメテウスも、パンドラも存在したということになっているのだ。
 ただ、今も広く信じられているような、神とは、ギリシャ神話の、
「オリンポスの十二神」
 は違っているのだ。

                 被害妄想

 ゆいかは、そんな自分に恐怖を感じ、自分から、カウンセリングを受けることにしたのだ。
 そんな同じカウンセラーのところに、まりえも通っていた。
 実際に通い始めたのは、まりえの方が先で、まりえの場合は、本人にはカウンセリングを受けるという意識はなかった。
 それを、まわりが見るに見かねて、
「いや、このまま放っておけば、自分たちがどんな被害に遭うか分からない」
 という意識から、まりえをカウンセラーの元に行かせたのだ。
 さすがにいきなり、神経内科に行かせるのは逆効果だという意識があった。まりえという女性は、頑なであるのと同時に頭の回転も早かった。それだけ、自分に危機が迫ってきているという意識が本能的に防衛に走らせるのだろう。
 そんな防衛本能を持った、まりえは、自分の中で自分を理解することができなかった。
 ゆいかのように、自分を冷静に分析することができなかったのだ。
作品名:症候群の女たち 作家名:森本晃次