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症候群の女たち

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 というのは、宗教によって違う意味を持つが、ほとんどは、
「死後の世界で極楽に行けるように、この世でよい行いをすることだ」
 というのである。
 だから、過激な宗教は、
「自爆テロ」
 のようなことまでできるのである。
 心理学というと、難しい学問であり、社会的な現象まで、心理学の考えが影響しているのでではないか?
 と言われていることもある、
 死んだ人間が、生まれ変わるという考えは、ほどんどの宗教であるようだ。
 その中で、一つ気になる考え方があるのだが、
「天界」
 という考え方である。(言葉は違ったかも知れないが)
 天界というものには、4つの場所があると言われている。
 悪事を働いたために堕ちるとされる、
「地獄」
 そして、普通に死んだ人間がいく、
「幽界」
 そして、徳を積んだ人間が行く、
「霊界」
 というところがあり、さらにその上に、
「神界」
 というものが存在するとされる。
 その中で、
「もう一度人間に生まれ変わることができるのは、幽界に行った人間だけだ」
 と言われている。
「霊界以上に行った人間は、そのまま天界で生まれ変わることなく、神として君臨することになるので、下界に降臨したとしても、それは人間としてではないので、生まれ変わったことにはならない」
 のである。
「では、地獄の場合は?」
 ということになるが、
「地獄に堕ちた人間は、生まれ変わることができたとしても、それは人間として生まれ変わるというわけではない。その場合は人間以外の別の動物に生まれ変わる」
 ということになるのだろう。
 また、これは面白い話でもあるのだが、
「地獄で蠢いていて、他の動物に生まれ変わった場合、地獄の苦しみが感覚や感情をマヒさせるということから、生まれ変わった時、まったく記憶部分がマヒしてしまっているのだ」
 という。
「人間が生まれ変わるには、幽界に、生まれ変わるための時間が必要であり、その時間のために、自分が生きていたという記憶が失せてしまったというわけで、生き返った時に、まったく覚えていないというのは、別に記憶を消されて生まれ変わっているわけではない」
 という考え方だった。
 ということになれば、人によっては、前世での記憶をかろうじて持ったまま、生まれ変わっている人がいてもいいだろう。
 実際に、
「自分が、有名な戦国武将の生まれ変わりだ」
 とか、
「自分は農民だった」
 などという、どこまで信じていいのか分からないという感覚が残っていたりする。
 一般的に信じられているものとして、
 一般的に言われている生まれ変わりとは、少し違っているようにも思えるが、それでも、
「過去の記憶を覚えていない」
 ということに関して、それなりに説得力があるという意味で、この説もまんざらでもないという思いもあるのであった。
 ゆいかが、
「自分は、誰かの生まれ変わりだ」
 と思っているとしても、それは、基本的にほとんど、生まれてきた人は誰かの生まれ変わりだとも言えなくはないだろう。
 ただ、昔の記憶がないので、そう思っていたとしても、それを前面に出して、自ら考えるということはしない。むしろ、
「そう考えるのは、あまりいいことではない」
 という妄想に近いものを抱いているのかも知れない。
 それは、生まれ変わりというものがどういうものなのかということを、自分なりに理解しようと思っているからだ。
「生まれ変わり」
 という定義にも、広義の意味と、狭義の意味とがあるような気がする。
 広義の意味としては、
「生まれ変わりというのは、人間が人間に生まれ変わるというすべての場合のことを刺す」
 という考え方と、狭義の意味としては、幾種類かあるのだろうが、一番に思いつくこととしては、
「誰かが死んだその瞬間に、誰かが生まれたその時に、死んだ魂があの世に召されるわけではなく、生まれた人間の魂として入り込む」
 ということであるが、これにはいくつかの疑問がある。
 まずは、
「生まれた人間の魂というのは、どこに行ってしまったのか?」
 という考え方だ。
 これを逆に、
「生まれ落ちた時、すべての肉体に魂が宿っているわけではなく、魂が宿っていない人間には、その瞬間に死んで、あの世に召させる魂が、生まれた肉体に、新たな魂として入り込む」
 という考えだ。
 これは、ある意味で説得力がある。
「もし、入り込む魂がなかったとすれば、その子は死産として、生まれながらに死んでいたということになるのだろう」
 という考え方だ。
 皆が皆、生きて生まれてくるわけではない。それを考えると、死産は、入り込んでくれる魂が見つからなかったことで、そのまま生まれることはなかったということで、
「死産」
 ということよりも、
「生まれるはずのなかった肉体だけが、存在した」
 という不思議な発想になるということではないだろうか?
 つまり、
「人間の生き死にというものには、肉体の生死が、偶然という形で魂が都合よく存在するということを孕んでいる」
 といえるのだ。
 そういう意味では、
「偶然」
 という言葉には、それだけの重みが、人間が考えているよりもあるのかも知れない。
 ただ、ここでいう偶然という意識はあくまでも人間が持っているもので、それだけ、偶然というものは、人間界では、
「頼ってはいけないものだ」
 という感覚である。
 しかし、天界では、偶然というものは存在しない。存在するとすれば、それは、神々が独自に起こす、この世でいうところの、
「奇跡のようなもの」
 であり、
 これは天界では普通に存在しているものだとすれば、神の世界での偶然というものは、
「全体を都合よくするものではなく、あくまでも、一部だけに都合のいい現象」」
 ということで、そこには、誰か単独で、自分に都合よく、神に備わっている力を発揮したということになるのかも知れない。
 だとすると、人間の生き死にも、誰か一部の神の仕業によって行われていることだとすれば、人の生き死には、最初から決まっているものではなく、最初から決まっているところまで本当に生きられた人間というのこそ、本当の寿命を全うしたということになり、人間界では、大往生と言われるのだ。
 ただ、これは神がまったく何も関わらなかった場合であり、人間界で起こるすべてのことは、少なからずに神の力が働いているとすれば、それこそ、ギリシャ神話に出てくる、
「オリンポスの神々」
 の発想ではないだろうか?
 オリンポスの神として君臨している神々は、ギリシャ神話の中では、
「彼らほど、人間臭い者はいない」
 といってもいいかも知れない。
「人間でも、そこまではしないだろう」
 と思うようなことを、なまじ力を持っていることから、やってしまうのではないだろうか?
「人間が、生まれた時、魂が入っていなかったのも、ある意味、生誕の神というのがいれば、その神の怠慢である」
 と考えたとすれば、
「ちょうどその時、死んだ人の魂を、うまく、利用できるのであれば、それも、神の仕業だ」
 とすれば、この場合の神も、しっかりと、人間界の生死について、チェックしている神もいるということだろう。
作品名:症候群の女たち 作家名:森本晃次