紫に暮れる空 探偵奇談25 前編
「あ、はーい。じゃあね、岡崎さん、また明日。ばいばい」
「うん、ばいばい」
後ろ髪をひかれる思いで、郁は立ち上がった。この後彼女が一人で教室に残り、一人で下校するのかと思うと、寂しい気持ちになる。
「須丸の兄ちゃん、昼休みに食堂で松前のお悩み相談聞いてたぞ」
美波が言うのを、瑞が顔を歪めて聞いている。「うわあ」と心底嫌そうに言う。
「…ぜってー説教されてる。女のことで悩んで授業料をドブに捨てるなとか言ってそう。てか間違いなく言ってる…」
「こえ~」
美波と瑞がそんな話をしている。教室から出かけたとき、郁の背後で短い悲鳴が聞こえた。
「!」
ガタガタという音に振り返ると、恵麻が床に両手をついてへたりこんでいた。椅子が倒れた音だったようだ。郁は慌てて駆け寄った。
「だ、大丈夫?落っこちたの?」
恵麻はまっすぐに前を見つめている。その顔は恐怖に歪み、唇がわなわなと震えている。郁は彼女の視線を追う。雨で薄暗い教室の黒板があるだけだ。
「来ないで…もう許して…」
震える声で、そんなふうに呟いてるのが聞こえる。郁はその肩をゆすって名前を呼んだ。弾かれたように郁を見た恵麻は、はっと我に返ったように俯いた。恥じ入るように。
「なに、どうしたの」
瑞がそばで見下ろしている。恵麻はかばんをひったくるように取ると、なんでもないと言い残して足早に教室を去って行った。
「どうしたのかな。椅子から落ちて驚いたとか?」
美波の言葉に、そんなふうじゃなかったと郁は思う。何かに驚き、そして怯えていた。
作品名:紫に暮れる空 探偵奇談25 前編 作家名:ひなた眞白