紫に暮れる空 探偵奇談25 前編
昨日の恵麻の姿を思い出す。わたしが殺した…何かを見て恐慌をきたした彼女は、そんなことを口走っていなかったか。
(もう兄ちゃんの耳にも入ってるのか?)
もしその話が本当なら、学校側は把握しているんじゃないだろうか。
「松前、字が汚い。ブーだ。やりなおし」
「須丸先生厳しすぎるよ~タガミンより厳しいよ~」
「田神先生から、字が汚いのは全部ハネるように言われてる。横山も、これブーな」
採点をしている兄はいつものように見える。恵麻の抱えている事情を、どのように受け止めたのだろう。
みんな少しより遅れて紫暮のもとへ採点に向かう恵麻。立ち上がった彼女の背中に、クラスメイトの視線が一斉に向けられているのを瑞は感じた。興味本位、嫌悪感、一抹の心配。そういった思いを一身に受けているであろう背中は、小さく、そして怯えているように見えた。
「惜しい。ここの訳だけ違うな」
「…でも、あたしわかんなくて、ここの終助詞」
消え入りそうな声だった。打ちのめされた者の声だ。しかし紫暮はいつもと同じだ。彼女の様子を気に留めるでもない。
「…春な忘れ、そ。連用形+そ、は禁止を表す。だから忘れてしまった、ではなく禁止の意味に訳する。わかるか?」
「…忘れては、いけない?」
「そう。忘れないでくれ、と訳すのが多いかな。「な~そ」は、するな、しないでくれ、だ」
学問の神様、菅原道真の有名な歌の一節だ。無実の罪で左遷されることとなった道真が、もう戻れないことを悟り、庭に咲いていた梅の木を見て悲しみの中で詠んだとされる。春になって東の風が吹いたなら、咲いて自分のもとへその匂いを運んでくれ、梅の花よ。主がいなくなっても、春を忘れないでくれ。そう訳す。
作品名:紫に暮れる空 探偵奇談25 前編 作家名:ひなた眞白