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能と狂言のカオス

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 という理不尽なことになるのかということは、今の時代で考えれば分からないことだが、当時であれば、それが当たり前のことだったのか、それとも、当時であっても、そんな理不尽なことは許されるべきことではなかったのか、何とも言えない問題である。
 だが、今から読むと、自分の知らない時代がどのようなものであったのかということを想像するという意味で、当時の小説を読むのは、実に興味深かったりする。
「今では絶対にありえない」
 というわけではないだろうが、なかなかないであろう。
 特に親の仇を打つなどという発想は、今の時代でどこかであるだろう?
 親どころか、自分が生きていくうえでそれだけで大変だからである。
 だが、逆に子供が殺された場合などは大いにあるかも知れない。
 特に最近では、理不尽な殺人も多かったりする。子供を標的にした猟奇殺人。
「死刑になりたいと思って」
 という、相手は誰でもよかったということで、通学路に車を突っ込ませたり、都会のど真ん中で、ナイフを振り回したりする犯罪が増えてきている。
 そんな時に被害にあった人の家族はどう思うだろう? それこそ、
「殺しても殺したりない相手」
 だと、犯人のことを恨み倒すに違いない。
 それを思うと、
「能面でもつけて、犯行を行わないと、俺自身が、ただの殺人鬼になってしまう」
 と考えてのことか、
「相手を殺すところを、あの世にいる子供(被害者)には見せたくない」
 という思いから能面をつけるのか。
 復讐を犯す人を想像する時、その時、どんな表情をしているのか、想像もつかないことで、その場面を思い浮かべると、どうしても、犯人が能面をつけている姿が思い浮かぶ。それは、目出し帽であったり、覆面のようなものではなく、あくまでも、能面なのである。
 人を殺すというのは、本当に本心からではあっても、実際のその場面では、
「本人ではない誰かの力が必ず働いているのだろう」
 と考える、松島刑事であった。
 能というものが、悲劇的で、文学性に富んでいることに対し、同じ猿楽から発展したものの中に、
「狂言」
 と呼ばれるものがある。
 狂言というと、喜劇的で、滑稽なイメージであるが、人間性に富んでいて、その内容は、朗らかなものもあれば、社会風刺のようなものもある。能と比較すると、
「能が、ゆっくりとした楽曲からの舞台であることに対して、狂言はある程度スピードを持つことで、滑稽さを引き立てる」
 というイメージもある。
 この時、能を思い浮かべた松島刑事は、同時に狂言というものも一緒に思い浮かべたというのは、ある意味ヒットであった。
 ひょっとすると、犯人もそれくらいまでは、思いつくだろうと思っていたかも知れないが、まさか、その思い付きを能楽から考えてくるとは思ってもいなかったかも知れない。
 松島刑事は、これを一種の閃きのようなものだと感じていたようだ。
 今回の事件において、事件を整理してみると、4つが絡み合っているように思えた。時系列に嵌っていないかも知れないが、列記してみよう。
 まずは、誘拐未遂事件があった。
「誘拐するぞ」
 と言って脅迫しておいて、あたかも誘拐したかのような芝居をしたうえで、実は、誘拐などされていなかった、というものである。
 これこそ、狂言誘拐に近いものがあった。
 ただ、狂言誘拐というのは、能楽から発展した能の対比語のような狂言とは意味が違っている。
「演目」
「つくりもの」
「台本」
 などと言った意味が狂言にはあり、つまり、
「つくりものの犯罪」
 要するに、
「でっちあげの犯罪」
 と言えるのが、狂言犯罪である。
 今回の誘拐事件も、狂言ではあるが、一般的な狂言誘拐とは少し違う。
 何が一般的なのかと言われると厳密には分からないが、テレビドラマなどであるのは、そこには必ず共犯者がいて、誘拐したことにするのだが、重要なことは、誘拐の計画者の中に、被害者が含まれているということだ。被害者が主犯であることも少なくはない。
 よく言われることとすれば、結婚したい相手がいて、駆け落ちをするのだが、先立つものがないということで、狂言誘拐をでっちあげ、お金をせしめるというやり方や、親に心配をかけることで、狂言と分かっても、
「子供が殺されることを思えば」
 ということで、泣く泣く結婚を許すという、そういう作戦を取る輩もいる。
 しかし、褒められたことではない。
 いくら、親に反対されているからと言って、誘拐をでっち上げ、まわりの人間に心配をかけ、自分たちの要求をのませようというのは、いくら親子でも、
「してはいけないこと」
 に違いない。
 ドラマなどでは、狂言誘拐だということで、ほのぼのと終わらせようとして意図もあるが、考えてみれば、とんでもないことである。
 いくら親でも、困らせてやろうなどという考えは、あまりにも自己中心的で、
「もし、親がショックで、心臓麻痺でも起こしてしまい、帰らぬ人になってしまったら、どうしよう」
 などと思いもしないのだろうか?
 少なくとも、何かの計画を立てる時は、最悪のことまで計算して計画を練ることが大切ではないだろうか。
 それを思うと、いくら、親子の間でも、
「やっていいことと、悪いことがある」
 という当然以前のモラルを、ドラマでは、肯定していることになるのだ。
 確かに、視聴者に子供や若者が多く、子供や若者をターゲットにしているドラマなので、視聴率稼ぎのためだと言えば理屈は通るが、そんなものを放送して、放送倫理に則っとっているといえるのだろうか?
 それを、狂言という言葉で使われたとするならば、狂言という言葉があまりにも気の毒ではないだろうか。
 モラルを犯してまで、ターゲットとなる年齢層の視聴率を稼ごうというのは、実にあさましいものと言えるのではないか?
 親の中には、放送局にクレームを入れるものもいるかも知れないが、それ以上に、親の方も、狂言誘拐の何が悪いのかということを理解できないほどなのかも知れない。
 親というものは、親になった時、自分が子供だった時のことを棚に上げて。子供を叱るので、
「自分が子供だった頃のことを忘れてしまったのではないか?」
 と感じるのではないだろうか?
 なのに、狂言誘拐などをテレビドラマとして見た時、不思議と自分が子供だった頃のことを思い出し、
「あの子の気持ち分かるわ」
 と思うのだろう。
 なぜなら、大体の大人が子供の頃には、一度くらいは、親のことを困らせてやろうと感じ、狂言誘拐くらい企んでみたことはあったに違いない。
 もちろん、実行はしなかっただろうが、その時のことが頭にあるから、そっちを先に思い出す。
 だが、親になって、子供が狂言誘拐を企んでいようがどうしようが、実際に行動に移らないのだから、まったく意識することもないのだ。
 だから、狂言誘拐は、親を懲らしめるという意味での計画としてはある意味成功するのかも知れない。
 さすがに子供にそんな企みをされることで、親としてはビビる方が先であろう。
「自分が子供の頃にはしなかったのに」
 と思うと、子供がよほどの覚悟を持ってしたことだと思いのか、あるいは、
作品名:能と狂言のカオス 作家名:森本晃次