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能と狂言のカオス

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 実際に殺害するつもりで行って、相手に襲い掛かったとして、逆に殺されたり、犯人が傷つけられたパターン。この場合は、もし、殺された時、犯人とすれば、
「相手が自分を殺そうとして、相手を殺してしまった」
 というわけだから、ある意味、正当防衛を主張するだろうが、その時は怖くなって逃げだすに違いない。
 その場で警察に通報し、自首すれば、無罪にはならなくとも、情状酌量が大きかったり、本当に正当防衛が認められる場合があるだろうが、逃げてしまうとそうもいかない。捕まって、裁判になると、正当防衛や情状酌量がどこまで裁判官が考えてくれるかということになるだろう。何しろ、自分を殺そうとしたとはいえ、相手が死んでいるのだからである。
 では、もう一つのパターンとして、自分が相手を傷つけるだけで、殺害にまで至らなあった場合である。
 その時は、
「相手を傷つけるところで終わったとしても、自分の恨みはこれで消える」
 と思うのか、
「相手が死んでもらわなければ意味がない」
 ということで、再度殺害計画を練るのか?
 あるいは、死んでもらわないと困ると思っても、
「人を殺す勇気なんて、何度も持てるものではない」
 ということで、人によっては、自殺を考えるだろう。
 たぶん、相手を殺すことが一番の方法であり、それが敵わないなら、
「自殺をするしかない」
 と思ったに違いないからだ。
 さて、もう一つは、本当に殺害に成功した場合である。
 殺害に成功したとしても、犯人はその後のことまで考えていただろうか?
「とにかく、相手を殺すこと。それに成功しなければ、その先はない」
 と思い、とにかく殺害することだけを考えていたとすれば、その目的が達成されれば、その後はどう考えるであろうか?
 もちろん、殺人に共犯者がいれば、共犯者の手前、絶対に捕まわらない方法を考えることになるか、あるいは、犯人が実はしたたかな性格だった亜場合、さらに保身を考えると、
「殺人が成功した暁には、共犯者というのは、邪魔者でしかない」
 と考えたとすれば、口封じのために、殺してしまうことも考えられなくもない。
 小説やドラマなどでは、共犯者が邪魔者として殺されることも、少なくないような気がするのだ。
 ただ、能面をかぶってしまうと、犯人の心の中で、
「自分であって、自分ではない」
 という気持ちになるのではないだろうか?
 どんなに冷静な犯人であっても、能面をかぶった相手にはかなわないと思うのではないだろうか?
 ある意味、犯人の中には、
「殺害を犯している時の自分は、本当の自分ではない」
 と思っている人や、逆に、
「殺人を犯している時の自分こそ、本当の自分だ」
 とまったく逆のことを考えているかも知れない。
 前者の方は、
「能面をつけることで、自分という人物を隠し、能面の力を借りて、殺人をしている。だから、能面をつけているのは、本当の自分ではない」
 という思いから、殺害への勇気を持つのであり、逆に後者の場合は、
「能面をつけることで、自分の奥にある、本当の自分を、本性として出してくることで、目的が何であるかという気持ちから、勇気が醸し出される。すべてにおいて、能面は、自分の潜在能力を引き出すには十分な道具なのだ」
 と考えるのだろう。
 まったく正反対の考えではあるが、その気持ちがいかに犯行を成し遂げるために大切なことかということを思えば、能面をつけるということは、
「勇気百倍になる」
 といってもいいだろう。
 能面をつけることは、自分を隠すためではなく、
「覚醒させるためだ」
 と考えただけで、勇気が出てくるだろう。
 松島刑事は、今度の事件を、こんな、
「能面をつけた犯人が、殺人を行っている」
 という思いを抱いていた。
 もちろん、勝手な思い込みでしかないのだが、能面というのは、
「気持ちを覆い隠す」
 という意味で、殺人を行っているのは自分ではないと思うこと。
 あるいは、
「覚醒させる」
 という意味で、本当の自分を引き出すという気持ちであるとしても、殺人というものが、どんなにその人にとって必要だとしても、世の中では正当化されるものではない。
 特に、復讐というのは、法的には認められていない。江戸時代であれば、仇討は、認められれば決闘という形で、公式な果し合いが行われたが、今では公式には認められず、あくまでも、私恨による殺害は、殺人罪でしかない。
 情状酌量があるかないか。それが裁判の争点ではあろうが、同情はされても、罪は罪なのだ。
 犯人だって、そんなことは分かっている。
「殺しても殺したりない」
 という気持ちになっているくせに、殺害には、どうしても二の足を踏む。
 それは、殺人ということが、悪であるということを意識するからなのか、それとも、人を殺すことで、自分も相手と同じ穴のムジナになってしまうということを考えるからなのか。
「復讐の連鎖は、終わらない」
 などと、よく言われたりする。
 自分は、例えば大切な人を殺されたことで、その復讐に、殺した人を殺めるとすれば、殺した相手にも家族がいたり、その人を大切の思う人がいるだろう。復讐を果たそうとする人間には、そんなことを考える余裕はない。
 実際に殺してしまうと、今度は自分が復讐の対象になってしまうことを考えたりはしないだろう。
 その考えが、なかなかうまく働かず、復讐の連鎖は収まることはない。こういうのを、
「負のスパイラル」
 というのではないだろうか?
 負のスパイラルというものを考えた時、絶対的に必要なものは何かであるが、
「それは力ではないか?」
 と考えるのであった。
 その力をいうのが、本当の腕力であったり、金銭的なものであったり、さらには、権力のような目には見えない相手を恫喝するものであったりするだろう。
 どれが一番強いのかは分からないが、少なくとも、人を殺すということになると、腕力だけではどうにもならないのではないかと思える。
 確実に相手を仕留めることが目的であれば、腕力だけでは物足りない。そうなると、共犯者を得たり、さらには、情報収集、自分の優位性を保ち、相手を追い詰める、などのいろいろな方法が考えられる。そのために、金銭的な力、権力などが必要になるということになるのだ。
 そんなことを考えると、
「殺人というのも、実に大変なことで、一世一代と言ってもいいだろう」
 と思うのだった。
 そういえば、戦前の探偵小説を読んだ中で、
「俺は、この復讐に人生を掛けているんだ」
 と言って、
「生まれた時から、復讐という運命を背負っている」
 などと言って、自分の親の仇を取ろうとしている事件が多くあった。
 しかも、その復讐の相手というのが、実際に手を下した相手ではなく、その息子や息子だったりする。
 親がまさか、稀代の殺人犯だったなどということをまったく知らない、子供たちである。
 本来であれば、
「どうして、親の恨みを自分たちが受けないといけないのか?」
作品名:能と狂言のカオス 作家名:森本晃次