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遺書の実効力

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 実際に子供の頃から見ていてもそう思ったのだが、ある日、親せきが集まった時、トイレに行った時、洗面所から聞こえてきた会話が、まさに自分が感じていることと同じだったのを聞いた時、誇らしく感じた。
 というのは、父親を誇らしく感じたのか、自分が思っていたことをまわりも感じていたことで、
「我ながら、俺の見る目も悪くないじゃないか?」
 という思いも相まって、誇らしげに感じたようだった。
 そんなことを思いながら、
「お父さんの、どこがそんなに皆から尊敬の念を集めるんだろう?」
 と考えていた。
 確かに、子供の自分から見ていても、どこか貫禄のようなものがあり、人と会話をしていても、普段からあまり人と話をしない人と変わらないぎこちなさがあるにも関わらず、
「何をそんなに貫禄を感じさせるんだろう?」
 と思っていると、次第に、父親が大きく見えてくるのを感じた。
 そして、大きく見えてくると、どうしても目立ってしまい、その一挙手一同が、よくも悪くも目立つのであった。
 そんな中で、目立つのだから、少々でも無駄な動きがあれば、悪い方に目立つはずである。
 それなのに、悪い方に目立ったりしなかった。
 ということは、
「無駄な動きが一切ない」
 ということなのであろう。
 そう思うと、
「動きに余裕があるから、無駄な動きが一切ないのかも知れないな」
 と思った。
「余裕があるから余計な動きがない」
 ということだ。
 その余裕は、精神的なものから来ているに違いない。動きというのは、頭が伝達することで、身体が動くものだからである。
 だから見ていて、次第に大きくなるのだろう。要するに、
「無駄のない動きと、精神的に余裕があることは、見ていて、すべてがいい方に循環して見えてくるに違いない」
 ということだと感じたのだ。
 だから、父親が相手に対してする助言には重たさがあるのだろう。そして、その重たさこそが、
「相手に与える安心感」
 から来ているものだと感じた。
 果たして、自分の目で見える範囲にいる人の中に、他に、そんな安心感を他人に与えられる人がいるだろうか?
 自分の父親だということで、贔屓目に見ていると言われればそれまでだが、逆に母親に対しては、
「わがままな人だ」
 という印象しか伝わってこない。
 それでも、母親からは温かさが伝わってくるのは、やはり、それこそが、
「血の繋がり」
 というものではないかと、感じるのであった。
「血の繋がりなんて、迷信のようなものだ」
 と思っていたが、このわがままだと思う母親に対して、血の繋がりを感じるというのは、実に皮肉なことだといえるのではないだろうか?
 その点、父親には。そういう曖昧な感情があるわけではない。理論的に段階を踏んでみていて、実際に、安心感を感じるのだ。
 そんな父親を見ていて、
「聖人君子というのは、お父さんのような人のことをいうんだろうな?」
 と感じ、却って大人になるにつれて、自分が緊張するのか、ぎこちなくなり、近づきにくい存在になっていったのだった。
「お父さんのそばには、いつも誰かがいて、近づきにくい」
 と思うようになってきた。
 別にいつも誰かがいるわけではない。そんなことは分かっているのだが、少しでも距離を血詰め用とすると、そこには、緊迫感が張り巡らされていて、普段感じたことのない緊張感に包まれて、ひどい時には、金縛りにでも遭ったかのように感じるのだった。
 高校時代などは、特にそうだった。
 仕事で帰りも遅くなっていて、顔を合わせることもほとんどない。
 朝も、食事をしながら、新聞を読んでいる。父親は会社までが遠いので、崇城が起きてくる頃には、ちょうど食事を終えて、出勤体制に入るところだった。
 母親は、父親よりも、息子の食事があるので、父親の見送りや、出かける用意などをしている暇はなかった。
 だから、朝の出勤は、いつも余裕のある精神状態で、無駄な動きをしないはずの父親が、唯一、ぎこちない時間なのかも知れない。
 一度、出勤していく父親の背中を見たことがあったが、自分の中で驚愕するほど、その背中が小さく見えたものだった。
 背筋は、かなり曲がっていて、それこそ、老人のようであった。背中からは寂しさが醸しだされていて、哀愁という言葉とは、かけ離れていたようだった。
 そういう意味で、
「お父さんに、哀愁というのを感じたことはなかったな」
 と思った。
「哀愁というと聞こえはいいが、しょせんは、皆寂しさを哀愁という言葉でごまかしているだけではないか?」
 と感じさせられた。
 今まで感じたことがない種類の寂しさを父親に感じた。
「何かが違う」
 という思いは次第に強くなってくる。
 その違いに気づいたのは、それから1カ月後くらいであった。
 いつものように、父親が、洗面所から出て、着替えをしているかと思って、リビングに戻ってきた時、すでに、父親はいなかった。
「あれっ?」
 と思い、いつもならそんなことはしないのだが、何かの胸騒ぎがしたのか、いつもなら、そのままキッチンに戻って、朝食を食べるのだが、不気味な感じがあって、寝間着のまま、スリッパで表に出て行った。
「そんな恰好で、何しているの?」
 と、母親から叱られるのを百も承知で、飛び出したその時に見た父親の後ろ姿には、まるで、首なし死体が歩いているかと思うくらいにうな垂れていたのだ。
 その時に感じた、不気味さは、身体がゾッとするほどだった。
 まるで、幽霊でも見てしまったかのような感覚に、寒気があり、
「このまま熱でも出てくるのではないか?」
 と感じ、父親を再度見ると、
「分かった」
 と、なぜ、父親に哀愁ではなく、寂しさを感じるのかを理解した気がした。
 父親は、東に向かって歩いている。つまり、太陽は逆光で、その太陽に向かって歩いているのだ。
 だから、当然見えてくるはずのものが見えていないことに最初は気づかず、それが気持ち悪さになり、寂しさを感じさせたのだ。
「あるはずのもの」
 それは、足元から伸びているはずの影だった。
 その影がないことに気づくと、さらに、ゾクゾクしたものが、得体の知れない恐怖を運んでくる。
 正体がわかると、もうそれは気持ち悪さではなく、ハッキリと恐怖だと感じるのだ。普通ならありえないことが起こっている。前に見た時も、気づかなかっただけで、やはり影が見えていなかったのだろうか?
 そう思うと、急に、1カ月も前のことが、昨日のことだったかのように思えてきて、
「こういうのを、デジャブというんだろうか?」
 と、考えた。
 影のないことを、
「デジャブを見た」
 ということで片付ければ、少しは恐怖というものが和らぐのではないかと思えたのだった。

                 父の死

 そんな父が病に倒れたのは、それから、1カ月も経っていなかったのではないか?
 最初は、父親の影がなかったことを非常に気にして、気持ち悪さからか、それから少しの間、父親が出かける時、後ろから見ていて、影があるかどうかを確認したものだった。
 幸いなことに、影を見なかったのはその日だけで、時間が経つにつれ、
「あれは、気のせいだったのではないか?」
作品名:遺書の実効力 作家名:森本晃次