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遺書の実効力

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 親子の関係というものがどういうものなのか、正直誰が分かるというのだろう。子供時代も分かっていて、大人になって自分が親になる。親も子供も両方経験しているのに、子供の頃の経験が生かされていない親がどれほど多いということか?
 だが、考えてみれば、それは当たり前のこと、そんな親に育てられた子供が親になるのである。
「あんな親にはなりたくない」
 という思いを抱いているくせに、結局は、
「あんな親」
 になってしまうのだ。
 ということは、
「あんな親になりたくない」
 という思いよりも、さらに強い思いがあるということであろう。
 その思いは、感情だけではなく、自分の身体の中に沁みついた、
「トラウマ」
 というものから来ているのではないだろうか?
 というのも、子供の頃に受けた、外圧がトラウマになり、自分の子供には、そんな思いはさせたくないという感情よりも、トラウマが親になった時、逆の思いを感じさせ、
「本当は、あんな大人になりたい」
 と思っていたのかも知れない。
 それは、
「俺ばかりが辛い思いをして、自分の子供にも同じ思いをさせないと、割に合わない」
 という感情なのかも知れない。
 大人になると、子供の頃のような感情を押し殺してしまい、そのため、
「損得勘定」
 で、世の中や自分の生きる意味を判断しようと考えるのではないだろうか?
 だから、トラウマが教えてくれた損得勘定は、
「自分の子供にも同じ目に遭わせなければ、割に合わない」
 という考えなのではないだろうか?
 確かに子供の頃は、同じ思いを子供に味合わせたくないと思っていたくせに、大人になると、簡単に忘れてしまうのだろう。
 ただ、これが母親ともなると、
「母性本能」
 というものが働くからか、父親のような威厳があるわけではなく、少しは子供のことを考えようとするのだろう。
 しかし、その反面、自分の好きなことができないことへの反動やギャップで、余計に、
「好きなことにのめり込めば、子供を忘れてしまう」
 ということが起こるのかも知れない。
 それが、パチンコ屋の駐車場に手の、子供の置き去り事件であったり、
「折檻」
 という名目で、子供を寒空の中、ベランダに置き去りにしておいて、自分は、さっさと不倫相手のところに通って、
「不倫相手と二人の間は、子供のことを忘れてもバチは当たらない」
 などと思い、結局、最高のバツを与えられることになるだろう。
 そんな時の親というのは、冷たくなった子供を発見した時、どういう気持ちになるというのだろう?
 子供ができた時は、
「パチンコ屋の駐車場に子供を置き去りにする親なんて、最低だ」
 と、テレビを見ながら口走り、実際にそう思っていたことだろう。
 だが、まさか、自分が同じように子供を置き去りにしてしまうことになるなど、思ってもいなかったはずだ。結局、損得勘定に動いてしまい、
「子供と今までずっと一緒にいたのだから、ちょっとくらい、女の幸せに癒されたっていいじゃない」
 と思い込むことで、普段から、
「子供のために犠牲に遭っている母親」
 という思いを持っていることで、死んでいる子供を見ても、
「私が悪いんじゃない」
 と、思っていることだろう。
 後悔するかも知れないと考えれば、子供のことを置き去りにしてしまうようなことはないはずだ。
 パチンコで夢中になって、子供を忘れてしまうのと、浮気相手に夢中になり、子供を置き去りにしてしまったまま気づかないでいるのと、どこがどう違うというのだろうか?
 確かに、普段から子育てのためにいっぱいいっぱいであることには気の毒な部分はないとも言えないが、だからといって、最後に後悔するのは自分である。
 そして、
「自分の子供を殺してしまった」
 というトラウマを一生抱えて生きていくということがどういうことなのかを、漢字ながら生きていかなければいけないのだ。
 そうなってしまえば、誰も同情はしてくれない。
「少し気の毒かな?」
 とは思っても、許せる行為ではないというのが、皆の気持ちであろう。
 もし分かってくれる人がいるとすれば、同じように、子供を殺してしまった母親しかいない。分かってもらえたとしても、そこから先は、何もないといっても過言ではないだろう。
「人間というもの、一度の後悔が、一生の後悔となってしまっては遅いのだ」
 ということなのではないだろうか?
 そういう意味で、子供の頃の仕打ちを、意識せずに自分の子供に対してしている親は、
「一生の後悔予備軍」
 と言ってもいいだろう。
 しかも無意識であるのだとすれば、いつ何が起こっても不思議はないという状態なのではないだろうか?
「大人になるというのは、どういうことなのか?」
 というのは、きっと、人生を最後まで終えた瞬間であっても、分からないままの人が多いのではないだろうか?
 子供が大人になる時、大人は意識するのだろうか?
 前述のように、性的な話題に触れられ、露骨な表現をされると、
「何言ってるの。そんなこと、大きな声でいうもんじゃありません」
 と、親の方が、まるで申し訳ないとばかりに、顔を真っ赤にしている。
 子供としては、
「これは、言ってはいけないことなんだ?」
 という意識でいると、学校の中の悪友と呼ばれる連中から、
「性教育の講義」
 を受けると、たぶん、生徒の方は、
「そんなこと大声で言っちゃあ、ダメなんだよ」
 と諭すような言い方をするかも知れない。
 すると、相手はきっと、大きな声で笑うであろう。
「ははは、お前は本当に子供だな? 大人になり切っていない証拠だ」
 とでも言われれば、大人になるということが正しいことであり、大人になるためには、キチンとした性教育を受ける必要があるということを言われると、ただ、理性という言葉に操られているくせに、理性を失って、子供の言ったことを恥ずかしいという人間に、矛盾を感じることだろう。
 この、性教育の講義をしてくれている、先生が、今度は、
「本当の大人」
 とでもいうように思えてくるのだった。
 だから、性教育を正しいものだと思うようになると、大人がなぜ、そこまで羞恥を感じるのかということが疑問になってくる。
 そのことは、先生にも分からない。
 それはそうだろう。何しろ先生とはいえ、自分よりも、少し先に知識を頭に入れただけという、同じ子供だからである。
「大人なんて、子供の延長でしかない」
 と思うと、今の親を見れば理屈は分かる気がする。
「自分が子供だった時のことを忘れたのか?」
 と言ったとしても、身体だけが子供が生める体勢になっただけではないか。
 グルリと回って、今度は自分が親になるという意識が本当にあるのだろうか? それがないから、
「親にはなったが、大人になったのかどうかは、分からない」
 ということなのだろう。
 そんな中でも、父親のことは尊敬していた。いつもまわりの人から信頼され、相談を受けているようだ。親戚で集まった時も、あまり口数は多くないが、自分から人に寄っていかない分、人が近づいてくる。
 父親を見ていて、
「すごいな」
 と思うのは、絶対に人を否定しないところであった。
作品名:遺書の実効力 作家名:森本晃次