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遺書の実効力

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 そのために、
「大人になると、子供だった頃のことを忘れるものだ」
 という意識が頭に残ってしまい、性教育をどのようにして身に着けたのかということを、忘れてしまうのは、この感覚があったからではないだろうか?

                 聖人君子

 母親は、どちらかというとわがままな性格だったような気がする。そんな母親をうまく操縦して、夫婦生活や家庭を築いてきたのは、ひとえに父親の性格によるものではないだろうか?
「聖人君子」
 などと言われるが、まさにその通りだったような気がする。
 少々のことを言われても怒るようなことはしない。ただ、相手に必要だと思うことであれば、少々強引かも? と思えるようなことであっても、推し進めようとするところがある。
 だが、最初はかたくなに拒んでいた相手も、次第に父親の説得に折れてくるのだ。
 父親のやり方は、最初に相手に対して、一度だけ、恫喝をする。しかし、相手はそれを恫喝と思わないほどにやわらかいもので、恫喝されたとしても、それは、
「自分が間違っているのではないか?」
 と思わせるほどのものである。
 だから、最初の一撃は一瞬だけ、相手の気持ちをつく。それは、隙をつくというようなもので、相手は、ふいを疲れて我に返るのだが、その次には、恫喝されたという意識は消えているのだ。
 その代わり、我に返ったことは意識の中にあるので、自分が、父親と真正面から向き合っているのだと、思わせるのだ。
 それが、父親の一撃ともいえるテクニックなのではないだろうか。
 その時点で、もうすでに、ペースは父親に握られてしまっている。そこから先は決して恫喝することも、マウントを取ろうとすることもない。そうしなくとも、マウントなどいらないのだ。すでに相手は冷静になって相手と正対しているのだから、これ以上の立ち位置はないということであろう。
 そう考えると、
「すでに、信頼を与えられた」
 と相手に思わせることに成功しているのだった。
 そのため、ここまで行くと、よほどのことがないと、父親の話に逆らおうという気が失せてしまっていることだろう。
 言い方は悪いが、
「洗脳されている」
 と言ってもいいかも知れない。
 もし、この洗脳を行う人間が、聖人君子のような人間でなければ、間違った方向に道が開けてくるのだが、父親に限ってはそんなことはなかった。
 だから、まわりの人のほとんどは、父親のことを、
「まるで聖人君子のような人だ」
 と、尊敬の念を込めていうのだった。
 普通、聖人君子という言葉を使う時というのは、結構皮肉めいた使い方をする場合が多い。
 誰かをいさめる時などに、
「何を偉そうに、聖人君子にでもなったつもりか?」
 と言われてしまうと、マウントを取るどころか、面目が丸潰れの状態になってしまうであろう。
 だから、言動と行動に辻褄が合っていないと、相手からは信用されない。
 いい行動をしているのに、言動がまずく、相手に誤解を与えてしまう人のいるが、そういう人のことを、
「惜しい人だ。あるいは、残念な人だ」
 と言われたりもするが、まさにその通りだろう。
 逆に、言葉ではいいことを言っていても、行動が伴っていないと、
「惜しい」
 とまでも言われない。
 それこそ、憎まれることになるのであり、
「何を偉そうに、聖人君子にでもなったつもりか?」
 と言われる人間こそ、まさしくその通りなのである。
 父親の場合は、まず行動があって、言動がその後から、ちゃんとついていっているので、「聖人君子」
 と言われても、それは皮肉でもなんでもないのである。
 言葉ばかりが立派で、行動を伴っていないと言われるのが、一時期、社会問題になった、
「新興宗教団体」
 ではないだろうか。
 立派なことを言って信者を増やし、中には、国家転覆を企んだり、自分たちの立場を警察が嗅ぎまわっていると思うことで、その追及の目を他にそらそうとして、大きな事件を巻き起こすような輩がいた時代もあった。
 そんな時代を見てきて、さらには、そんな連中に関わった人間には、黒歴史でしかないのだ。
 そんな連中こそ、
「言っていることは聖人君子であるが、やっていることは……」
 なのである。
 だからこそ、
「聖人君子」
 という言葉が、軽々しく感じられるようになり、
「教祖様」
 という言葉がまるで、
「悪の巣窟」
 であるかのように、見られてしまうのだ。
 これも、群集心理の悪いところなのかも知れない。
 たくさんの人が教団に入り、教祖を神のごとく祀っていれば、人生においての救世主を待ち望んでいる人間には、本当に神に見えるのかも知れない。
「たくさんの人が」
 というワードが、自分に安心感を与え、少なくとも五里霧中の状態において、その教祖だけが、前に答えを示してくれているのであれば、怪しいと思うよりも、救世主だと思うことが先であろう。
 そう思うと、救世主というものを待ち望んでいる人は皆、教団を慕っている人たちを仲間と思い、そんな連中を暖かいと思うと、今度は今まで生きてきた自分の世界で、
「果たして、誰が何をしてくれた?」
 と考えると、温かさだけが正義のように思えてくるのだ。
 親や、仲間と思っている連中も、最後には自分を裏切るものだと思い込む。どちらにも温かさを感じないからだ。
 親は、口うるさいだけで、自分が子供時代のことも忘れてしまって、子供を必死に戒めようとする。
 それは、言い聞かせているわけではなく、洗脳しようとしているようにしか思えないのだった。
「血が繋がっているんだから、自分の考えは分かるはずだ」
 という思いや、
「自分ができたことは、自分の子供だからできるはずだ」
 という思い込みが、子供を孤立させるのだった。
 子供は親が思っているほど、血の繋がりなどということを意識するわけではない。
 そのくせ、親が、
「自分の子供だったら分かるはずだ」
 と感じる思いを。ソックリそのまま親に対して感じているのだ。
 つまりは、
「親なんだから、子供の気持ちが分かるはずだ。しかも、自分が子供だった時代があったわけじゃないか。分からないはずなどない」
 という思いがあるのだ。
「親の心子知らず」
 と言われ、あくまでも、親の気持ちばかりを考えるような理屈になるが、それは、世の中が、やはり大人中心だからだということになるのだろう。
 最近では、
「男女平等」
 と言われているが、なぜ、
「大人と子供が平等」
 ということが言われないのだろうか?
 やはり、
「親というものが偉い」
 という考えが根底になるからなのか?
 今の世の中、子供を生みっぱなしで、幼児虐待があったり、養育放棄状態になり、子供が孤独に餓死したなどという話もある。ちょっと前の社会問題では、パチンコ屋の駐車場で、子供を置き去りにするなどという事件が多発した時があった。
 まるで、示し合わせたようなそんな状況に、
「本当に連鎖というものはあるのだろうか?」
 と考えさせられてしまうのではないか?
作品名:遺書の実効力 作家名:森本晃次