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遺書の実効力

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「これは、大人がすることなんだ」
 という思い。さらいは、
「子供がすると、犯罪なんだ」
 という思いが重なって、出てきた答えが、
「早く大人になりたい」
 という思いだった。
 正直、性的なこと以外では、決して、
「早く大人になりたい」
 などという感情があったわけではない。
 むしろ、大人になるということは、望むことではない。大人になってからの特権や、自分に対して生まれる責任と、子供の今のままとを比較した時、
「大人になんか、なりたくない」
 という思いがあったのだ。
 性的興奮を得たいということで、大人になりたいという思いとを天秤に架けたとしても、その答えは、
「大人になんかなりたくない」
 という思いだった。
 だが、それだけに、自分の気持ちに逆らうかのような、気持ちよさを得たいという思いは、妄想に繋がってくる。
 妄想と自慰行為で、どれだけ、子供でも快感を得ることができるかを考えていると、それこそが、思春期の中途半端な感情と、先に進むことのできない思いとが渦巻いていて、中学生男子の顔に浮かんでいるニキビが、性的興奮が高まることでのジレンマに耐えていることへの身体の反応のように思えるのだった。
 言葉でいうと、言い訳っぽいが、とにかくニキビが気持ち悪いのだ。
 しかも、クラスの中で男性の近くにいると、
「ムーン」
 としてくる、何とも言えない悪臭に悩まされていた。
 正直吐き気を催してくるようで、最初の頃は、正直、吐きそうでたまらなかった。
 途中から、その悪臭にも慣れてきたのだったが、我慢できないその状態を、時々思い出してしまって、またしても、吐きそうになる。
 そんなことを繰り返していると、その気持ち悪さから逃れたい一心で、自分の感情を押し殺そうと考えるようになる。
「余計なことを考えない方がいい」
 という思いと、
「本能のまま、行動すれば、気持ちが解放される」
 という思いから、自慰行為を毎日のように繰り返すようになった。
 快感が身体を包むのだが、果てた後の倦怠感や賢者モードをいかに自分の中で処理できるかということが重要だった。
「余計なことは考えない」
 と思っていると、快感が冷めてくる時に、うまく、感情をマヒできるようになれば、賢者モードに陥ったとしても、嫌ではないと思えたのだ。
 そんなことが本当にできるのか?
 疑問でしかなかったが、やってみると、意外とできるような気がした。
「賢者モードだって、快感の一種なんだ」
 と思うようにした。
 だから、性的興奮を感じてしまうことを悪いと思うから、賢者モードになるのであって、性的興奮を自分の中で、一つの快感だと思うようにした。
「女は、賢者モードはないというじゃないか?」
 と思うと、賢者モードの間に我に返るのではなく、興奮の余韻を楽しんでいると思うようになった。
 実際には、賢者モードの正体が、
「果ててしまった後、敏感になりすぎることで、刺激の強さに感情が負けているからではないか?」
 というものである。
 女性の場合は、敏感になっている状態に対して、刺激の強さに負けない感情があるからなのかは分からないが、だからこそ、何度でも絶頂に行けるのだと思うと、男性が感じている快感よりも、刺激という意味では、まだまだこれからだと感じているのではないかと思うのだった。
 これも、当然個人差もあるだろうし、何と言っても、
「男性には女性の快感が、女性には男性の快感」
 が分かるわけはないので、本当に妄想でしかない。
 だからなのだろうか?
 高校2年生の時に、
「女性用の服を着て、女性の快感を味わってみたい」
 と感じたのかも知れない。
 その時に感じた。
「女性というのは精神的にアッサリしているから、快感を持続できるのであって、男の場合は、頭で感じようとすることで、快感が持続できないのではないか?」
 と思ったのだった。
 これは、大人になってからでも、
「半分は合っていて、半分は間違っている」
 と感じたことだった。
 ただ、自分が実際に、「性」というものに目覚めたのは、中学生の時の授業中に、受けた悪友による「講義」で言われた、
「気持ちいい」
 というあの言葉だったのだと、今でも思っているのだった。
 悪友による、
「性教育」
 は嫌なものではなかった。
 少なくとも誰かが教えてくれなくても、身体に変化があったり、まわりの連中を見ていると、その変化に対して、いかに苛立ちを感じるものかということを考えてしまうと、押しつけの、性教育であっても、何も知らないよりはマシだと思っていたのだ。
 何しろ、大人は、口にするだけで、顔を真っ赤にして、羞恥のためか、怒りを込めて、いさめようとする。
 子供とすれば、
「何をそんなに恥ずかしいと思うのか?」
 ということを疑問に思う。
 知るということが、恥ずかしいのであれば、今まで受けてきた教育で、
「知らないことや分からないことを、分からないといって聞くことは、決して恥ずかしいことではない」
 と、言われてきたではないか。
 それとも、
「大人になると、分からないことを聞くことが、恥ずかしいということになるのだろうか?」
 と感じさせられるのだ。
 実際にはそんなことはない。ただ、「羞恥」という言葉が絡んでくると、問題になるだけで、特に、訳も分からずに口にするのはいけないことだと大人は分かっているくせに、それをいかに説明していいものか、いや、もっと大きな問題として、
「自分が説明していいものなのだろうか?」
 という思いと、
「説明の時期は今でいいのだろうか?」
 などという、思春期という、取扱注意の人を相手にするのだから、かなりデリケートな問題になってくるのである。
 だが、
「いつか必ず知らなければいけない」
 ということであり、それを誰がいつ、さらには、どのように説明することになるのか、それを書いてあるマニュアルがあるわけではないのだ。
 大人は、自分たちが歩んできた道ではあるが、たぶん、いつ、どのように誰から聞いたのかということを、ハッキリと記憶している人がいるだろうか?
 その理由は、一番大きな思いが、
「本人が知りたい」
 という感情にあるからだ。
 だから、本人が、
「人から教えられた」
 という感覚よりも、
「理解した」
 という感覚の方が強かったのではないかと思われる。
 そう考えると、
「決して押しつけではなかった」
 という感覚が薄れていることで、大人になって覚えていないのだろう。
 そもそも、
「性教育」
 という言葉自体が怪しいのかも知れない。
 まるで、誰かから教えられるものだとでも言わんばかりの言葉なのに、それを教えようとする人がいない。教育というくらいなのだから、学校で教えるものでなければいけないはずのものではないのだろうか?
 それを思うと、曖昧なものがさらに曖昧になってしまい、いつの間にか習得したものだからこそ、自分が大人になった時、分からなくなるのだろう。
 これは性教育に限ったことではない。大人になると、今度はとたんに子供の心が分からなくなるもので、子供の頃親から怒られたりして、
「自分だって、子供だったはずなのに」
 と思うのだ。
作品名:遺書の実効力 作家名:森本晃次