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遺書の実効力

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「お前が苛められなくなって嬉しいはずなんだが、何か、自分の中で、ムズムズした感覚があるんだ」
 と言ったが、友達も、そのことについては、
「俺もよく分からない」
 と言ってはいたが、今から思えば分かっていたのではないかと思えるのだった。
 友達とすれば、被害がなくなったのだから、手放しで嬉しいはずだ。
 崇城少年は、苛められていた友達を、必死で慰めて、自分が、
「助けてあげているんだ」
 という、
「上から目線」
 のような目で見ていたのだろう。
 友達はそれを分かっていたとしても、それ以上に苛めがなくなったことにホッとしているので、怒る道理はない。そういう意味で、友達に恨まれなかっただけでも、よかったと思うべきことなのだろう。
 高校生になった頃、やっと崇城にも、その時の心境が分かってきたような気がした。だが、いまさらこの話を蒸し返すようなことはしたくないので、心の奥にしまっておくことにした。それは、友達が、小学四年生の時にしてくれた、気遣いと、同じことだったのであろう。
 そんな友達のところに来ていると、安心できるのだった。
「何でも打ち明けた話ができる仲」
 だったのである。
 他の人には誰にも話していないが、死の間際に、父親が豹変した時の話を、彼だけにはした。
「うーん、何とも言えないけど、お父さんには、何か家族には言えないトラウマのようなものがあったんじゃないかな?」
「トラウマ?」
「うん、それも、二人に対してのものなのか、二人がお父さんに対して抱いているであろう思いをお父さんなりに考えた時、それが、死が近いということをお父さんが悟っていたとすれば、自分でも抑えきれないものになったのかも知れないな。だから、抑えが利かなくなって、自分でも、意識がなかったんじゃないかな?」
 というではないか?
 さらに、友達は、
「どっちの可能性もあると思うんだ。お父さん自体が二人に対して、疑念があった。あるいは、自分に対して何か悪いことを考えているんじゃないかという被害妄想のような発想だってありえることだろう? だけど、後者の方が、強いような気がするな。被害妄想というのは、普段から、開放的な人には、免疫のないものじゃないかって思うからね」
 という話を続けたのだった。
 それは、まさに、聞いていて、
「晴天の霹靂」
 であった。
 母親と父親との間には、何かぎこちないものがあるとは、前から思っていたのだが、それは、お父さんが一人で抱え込んだことで、大げさなことにならなかっただけなのかも知れない。
 以前、前述のような、
「お父さんのことが気になっていた女性がいたんじゃない?」
 という会話でもあったように、どこか、聞いていて危なっかしいところが、二人の会話にはあった。
「一触即発だったら、どうしよう」
 と感じていたのが、懐かしい。
 それでも、最期はうまく収まったのは、父親も軽い皮肉を込めることで、自分の中に遺恨を残さないようにして、さらに、母親に対してぎこちなかった反応をうまく収めることのできる会話は、実に素晴らしいものだと思っていた。
 だが、やはり、今思い出しても危なっかしいのだ。
 父親の言葉には、皮肉が籠っていて、
「ひょっとすると、母親の方が、うまくかわしているのではないだろうか?」
 とさえ思うほど、家族の間での父親の言葉には、起爆剤のようなものがあった。
 ただ、それは、相手が他人であれば、起爆剤がいい方に作用するのかも知れない。
 そんな父親に対して、
「どうして俺は、聖人君子のようだと思ったのだろう?」
 と、感じていた。
 いまさら、
「お父さんは聖人君子ではない」
 と思って、それまでの父親を思い返そうとするができなかった。
 きっと、
「お父さんが、もうこの世にいないからだろう」
 と思ったからだ。
「お母さんだったら、お父さんとの思い出を、いなくなった後でも思い出すことができるのだろうか?」
 と、考えたが、想像がつかない。
「じゃあ、直接聞いてみるか?」
 と考えたが、そんなことができるわけもなかった。
 ただでさえ、変に気を遣っているために、会話もできないどころか、友達の家に、
「避難」
 してきているではないか?
 そんな状態で話など聞けるはずがない。だが、知りたいことには変わりはない。一体どう感じているのだろうか?
 いつも帰宅するのは、母親が眠りに就く少し前。母親も分かっているのか、それとも、本当に会話がしたくないのか、崇城が帰り付くと、そそくさと、部屋に入って、もう出てくることはないのだった。
 だから、母親と顔を合わす時間はほとんどない。朝も、食卓の用意で、キッチンに入り込んでいるので、どちらかが話し掛けることをしないと、会話にならない。
 そちらかが話しかければいいのだろうが、崇城が話しかけることはない。
 当然母親も話しかけるような様子もない。なぜなら、後ろを向いているわけだから、話しかけるとすれば、最初からぎこちなくなるのは分かり切っている。
 それに、子供の会話をどうすればいいのかなど、分かるはずもなく、密かに食事の用意をしているだけになってしまうのだ。
 今までは高校生で、受験生ということもあり、気を遣うという言い訳があったが、今度は大学生。気を遣うこともないので、話しかけていいのだろうが、却って、何をどう話しかけていいのかが、まったく分からないのだ。
 お互いの会話がなくなって、どんなに殺風景なのか。
 何か音楽やテレビでもつけていればいいのだろうが、そもそも、朝食の時にテレビを見るという習慣が、崇城家にはなかった。
 ただ、これは、崇城家に限ったことではない。昔であれば、家長である父親が、
「食事中にテレビなんか、見るんじゃない」
 と言っていたと思うのだが、今では、そもそもテレビをつけていることはない。
 どちらかというと、最初は、息子がケイタイをいじったりしていたのだろうが、スマホが普及してから、父親もスマホを見ている。
 父親と息子の目的はまったく違うものなのだが、やっている格好は、まったく同じだっだ。
 そもそも、昔の、特に昭和の時代の朝食の風景というと、テレビがついていて、父親が新聞を読んでいる。しかし、スマホが普及してからというもの、ニュースはスマホで読めるのだ。
 だから、新聞を取る必要もなく、朝食の食卓に、新聞が消えた。
 新聞など、読んでしまえば、それこそ紙ごみでしかない。昔なら、
「古新聞古雑誌は、トイレットペーパーと交換します」
 などという、
「毎度おなじみのちり紙交換」
 というものがあったが、今では、ペーパーレスの時代。紙を使うのは、ほとんどなくなってきた。
 スマホで新聞が読めるので、電車の中の通勤ラッシュで、新聞を畳んで読んでいる人もいない。そういう意味ではよかったのだろうが、新聞がなくなると、広告の問題であったり、新聞屋さんが契約をしている、プロ野球や、芸能プロダクションなどの、割引券であったり、優待券などがもらえなくなるということもあるだろう。
 それも、ある意味、
「古き良き時代」
 だったのではないだろうか?
 食卓の変化も、そういう意味では、
作品名:遺書の実効力 作家名:森本晃次