遺書の実効力
自分一人の書斎を持つのが夢だったようで、それは、新婚の時から変わっていないということだった。
そんな亡き父親の書斎に入った母親は、書斎の中で、
「まだ、あの人がここにいるみたいだわ」
と呟いた。
あれだけ、一人の書斎にこだわったのは、一人で瞑想するのが好きだったようで、そんな書斎で、最初の1時間は、何もできずに、ただ佇んでいる母親であった。
気を遣う母子
そんな父親の部屋に入った母親は、正直、この部屋はそのままにしておきたいと思っているようだった。
そして、
「私、この部屋を使いたい」
と言い出したのだ。
「俺も使いたいと思っていたんだけど、それだったら、二人で使おうか?」
というと、
「そうね。なるべくお父さんの遺物を動かさないようにして、この部屋の資料を使ってできることをそればいいわね。この部屋はお父さんが私たちに残してくれた、遺産のようなものよね」
と言われて、
「うん、そうだ。そう思うと、この部屋を残すことの意味があることになる。これだけの資料は、相当なお宝だよ」
と崇城は言った。
父親の趣味があふれていると思った。
歴史が好きなので、歴史の本が一番たくさんあった。そして、次に好きな旅行の本。実際には旅行に行けるのも限られていたが、出張などでは、いろいろなところに行ったようで、その土地の本を集めるのが、父親の趣味でもあったのだ。
そして、その次に好きなのが、探偵小説であった。
海外の小説。日本の探偵小説、これだけ集めることができるだけですごいのに、歴史の本や旅行の本までたくさんあるというのは、確かに、
「お宝」
と言ってもいいだろう。
「お母さんは、お父さんの趣味の中では、探偵小説の本が一番好きかしらね。まだお付き合いしていた頃、私が推理小説が好きだっていうと、あの人、子供のようにはしゃいで、自分も好きだっていうのよ。それで、本もたくさん持っているって言っていたので、どれくらいなんだろうって思っていたけど、まさか、ここまですごいとは思っていなかったのよ。だから、一緒に暮らし始めた時、お父さんの書斎で探偵小説のコレクションの中から、私も何冊か読ませてもらったわ。それも、あなたがお腹にできるまでの話だったんだけどね」
というではないか。
二人の結婚は、いわゆる、
「できちゃった婚」
ではなかったが、妊娠したのは、結婚前だったようで、
「辻褄が合わないか?」
と言って、二人で笑っていたという。
「子供ができたから、結婚する」
という考えは、両親ともに嫌だったようだ。
「子供をダシにしているようだからな」
というと、
「その通りよね」
と、二人で納得していたという。
だが、結婚が決まってから、実際に結婚式を行うまでに、1年くらいの歳月があった。仕事の関係などいろいろあり、結婚式を挙げたのが、結構遅かったのだ。
「結婚が決まっての子供だから、問題ないさ」
ということで、結婚式の頃には、母親のお腹は目立っていたという。
「本当にできちゃった婚じゃないのか?」
と周りからは冷やかされたというが、
「もちろんさ。俺たちは、子供が好きだから、結婚が決まってから作っただけのことさ。結婚式が後ろに伸びてしまったことで、まるでできちゃった婚みたいに思われているけど、俺にとっては、心外なことさ」
と同僚に言われた時、そういって、ウワサを一蹴したという。
「あの時の、崇城君はさすがだと思ったね」
と、その時の同僚はそういって、仏前に手を合わせていたのだ。
そんな二人が結婚したきっかけが何だったのかというと、父親が、母親の勤めている会社に営業に行った時に知り合ったという。
二人とも最初はまったく意識をしていなかったというのだが、意識していないうふりをして、実は父親は母親のことを、バリバリ意識していたというのだ。
「知らないのは、本人たちばかりなり」
とでもいえばいいのか、父親は意識をしていないふりをしていたように見えたというが、本当は、そのことを本人自身も気づいていなかったというのは、さすがに母親の同僚もびっくりしたことのようだった。
だが、まったく気づいていない素振りがそのままの母親は、まわりから、
「本当に鈍感なんだから、見ていて、こっちがイライラする」
とばかりに、キューピット役を申し出る人もいたくらいだ。
「二人が少しは進展してくれないと、こっちは、気になって仕事なんかできやしない」
とばかりにいうのだが、半分本音だったようだ。
おせっかい焼きが多かった母親の同僚とすれば、
「うまく行かなくてもいいから、結果を出してほしい」
と思っていたようだ。
このまま煮え切らないままでいると、
「中には彼のことを気になっている人がいたりすれば、手を出せないでしょう?」
とばかりにいうのだった。
もちろん、そうであろう。結果待ちの方とすれば、精神的に穏やかではない。イライラさせないでほしいと思うのは、当然のことであろう。
そんな二人の進展に一役買ったのは、パートのおばさんで、
「年の功よ」
とばかりに、うまくお膳立てと、説得によって、デートにこぎつけることができた。
もし、これが社内恋愛であれば、少しややこしくなっていたかも知れないが、取引先の相手だということであれば、いくら接点があるとはいえ、まったくやり方が代わってくる。
同じ会社だと、会社にバレると、転勤させられたり、いろいろなよからぬウワサが飛び交ったりと、仕事どころではなくなる。
しかも、人間関係がギクシャクして、ロクなことはないだろう。
「社内恋愛というものは、身近でいいと思うかも知れないが、一歩間違うと、ろくなことにはならないんだ」
というではないか。
そんな社内恋愛がうまくいく可能性というのは、どれくらいあるのだろうか?
父親が一度話していた時、
「お父さんの会社は、社内恋愛で結婚したというパターンが一番多いからな」
と言っていた。
そのあとに、母親が、
「でも、社内恋愛というと、一歩間違えると、悲惨なことになるでしょう?」
というと、
「ああ、それはね、話がこじれたりすると、転勤させられたり、変なウワサが残ってしまって、会社に居づらくなるということも結構あるんじゃないかな? お父さんの部下にも何人かいたりしたよ。男は転勤させられ、女性社員の方は、いろいろな誹謗中傷でいられなくなってしまったということがね」
「まあ、ひどい。誹謗中傷なんて」
と母親がいうと、
「それは難しい問題だよね。男性の方を好きだった女性社員がいたとして、彼女だったら、しょうがないかと思っていたところで、破局して、好きな人が左遷させられたと思うと、自分がどうして諦めたのかを考え、それだったら、自分が積極的にいっておけばよかったと思ったとすれば、その不満は、彼女の方に向くんじゃないだろうか? 女性社員同士って、結構そういうドロドロしたものがあるんじゃないんだろうか?」
と父親はいうのだった。