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二人の中の三すくみ

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 蔵の中がどうなっているのかなど、今まで蔵に入ったことがなかったので、よく分からない。
 しかし、どこか懐かしさのようなものを感じるのだが、その反面、少し気持ち悪さもあった、
 というのは、何かの臭いを感じて、吐き気を催す感じがするのだが、それは汚物と何か別の臭いが混ざっているのを感じたからだ、
 その汚物というのは、牛や馬の排せつ物の臭いだった。
 本来なら感じることはないのだろうが、臭いだけなら、ごく最近感じたことだった。
 しばし考えていると、その思いはすぐに分かった。
「何だ、そういうことか」
 といって笑い出したくなるほどのことであったが、何を笑い出したくなるのかというと、それは、通勤の最中に感じた、牛小屋や、養鶏場の臭いだった。蔵のようなものが、養鶏場のある家では見て取ることができる。そこに何があるのかは分からないが、この場所の蔵を見て、想像したのは、きっと毎日のように見ている養鶏場の蔵を思い出していたからだろう。
 最初は珍しいと感じながら見ていたはずだが、その光景にも慣れてくると、見えていても、まったく意識をしなくなる。
「ああ、蔵があるな」
 思っていたのも、今では、感じることもなくなってしまっているようだった。
 だから、ここで蔵を見た時、養鶏場の蔵のイメージは湧いてきたのだが、湧いてくるだけで、それは養鶏場だということを、
「どこかで見たような気がする」
 と思いながらも、瞬時に結びつけることはできなかった。
「慣れというのは恐ろしいものだ」
 と感じるゆえんだったに違いない。
「では、一体、汚物と一緒に感じた気持ち悪い臭いとは何だったのだろう?」
 と感じた。
 その臭いは、汚物の臭いのようにごく最近感じたものではないか、遠い過去において、何度も感じていたことだったように思う。
 だから、汚物の臭いと同じように、重なって感じても、違和感がなかったのだ。
 そんなに古い記憶であれば、最近の記憶に太刀打ちするのであれば、それだけ印象が深いものである必要があるのか、それとも、よほど、毎日のようにでも感じていることでなければいけないのだろうと思うのだった。
 その臭いが、
「まるで、金属のような臭いだ」
 ということを感じた時点で、それが何の臭いなのか分かった気がした。
 確かに、昔。そ9う子供の頃に、しょっちゅう感じていた臭いだった。それがなぜ蔵と結びつくのかハッキリ思い出せなかったが、最初に感じた。
「蔵の中に入った記憶はないが」
 という記憶が、実は間違っているのではないか?
 と思うのだった。
 そんなことを考えていると、
「俺の子供の頃の記憶って、まるで後から別の記憶で塗りつぶされたかのように感じるんだよな」
 ということであった。
 その時、
「ああ、この臭いって、血の臭いだったんだ」
 と、思ったのだ。
 この思いが昔の記憶を引き戻すきっかけになると思ったのだが、肝心の記憶が戻ってくることはなかった。
 しかし、
「この臭いが血の臭いだ」
 ということを感じると、別の記憶が思い出された。
 その記憶には蔵が出てくるわけではないのだが。なぜ、蔵と血の匂いが結びついたのか、自分でもよく分からなかったのだ。
「血の臭いの記憶の正体」
 というのが何だったのかというと、
「確か中学の時に見た、交通事故だったような気がするな」
 というものだった。
 F市の中心部の幹線道路があるところが、中学時代の通学路だった。
 その日は、学校が終わっての帰宅の途中。別に特別なことがあったわけでも、普段と違う行動をしたわけでもない。
 そもそも、毎日ほぼ同じ行動をしていた不知火だったので、毎日の行動はいわゆるルーティーンのようで、別のことをするのが不安に感じるほどだった。
 それもあって、子供の頃から友達の数は皆に比べると、極端に少なかった。もちろん、一人もいないというわけでもないし、まわりから孤立していたり、苛めに遭っていた李ということもなかったのだ。
 学校でも、別に変わったことをするわけでもない。先生に逆らうわけでも、何でもない。恐ろしいくらいに、ほとんど何かを感じるということもなかった。
 極端な話、誰かが苛められているのを見ても、見て見ぬふり。苛めが怖いとも思わない。そんな不知火を苛めっ子も、見て見ぬふりをしていた。どうやら、やつらも不知火を怖がっているようだった。
 別に何かをするわけでもないのに、不知火が見るその能面のような、
「一体何を考えているんだ?」
 というその顔は、じっと見ていると、金縛りに遭ってしまうようで、ずっと見つめていると、身体が動かず、まるでクモの素という罠に引っかかった蝶や蛾が、クモに食べられるのを待っているだけのような恐ろしさを感じているようだ。
 苛めっこというのは、そういうこの存在を一番恐れているようなのだが、実際に自分の周りには一人は必ずいる存在だという。
 だからと言って、自分に何かをするわけではないのだが、無視することもできない。もし、無視してしまうと、自分の運命はそこから転落することが感じられてしまい、将来の悲惨さが見えはしないが、見えているという錯覚に襲われる。
 それは、本人に対しての抑止力が働いていて、苛めは辞められないが、それ以上に発展しないような抑止であった。
 これは、不知火が抱いている、苛めに対しての、
「妄想」
 なのだが、
「苛めっこというのも、別に苛めたいから苛めているわけではない」
 と感じるのだ。
 自分の中でどうしようもない感覚がある。それは、苛めっこの理屈の中の、
「勧善懲悪」
 のようなものである。
「勧善懲悪? 苛めをしておいて勧善懲悪もないものだ」
 と、きっとまわりお人はそういうだろう。
 しかし、苛めっこが苛めをする理由は。
「勧善懲悪」
 だった。
 勧善懲悪という理屈に、実は。まわりの人間も、いじめっ子にもさほど違いはないようだ。
 苛めっこからみれば、いじめられっこには、悪という文字が渦巻いているように見える。さらに悪いことに、そこには、いじめられっ子なりの理屈があり、その理屈の下で、まわりを欺き、まわりには、
「苛められて実に惨めだ」
 という姿しか映らない。
 これは普通の人が感じる感情であるが、いじめっ子には、そんないじめられっ子が、まわりを欺いていることで、自分が絶対に安全だということを分かっていて、いじめっ子に対して、
「お前がいくら俺を苛めようとも、正義は俺の方にあるのだ」
 という、明らかな、
「歪んだ悪」
 というものが見えているのだ。
 しかも、その歪んだ悪がまわりに見せる光景は。
「いじめっ子の理不尽な苛めで、耐えられなくなったいじめられっ子が、誰も助けてもらえない中、もがいている。しかも、いじめっ子は、そんな彼に容赦をすることなく、悪魔の笑みを浮かべて、さらに苛めを行うのだ」
 ということであった。
 しかも、まわりは、
「自分たちに、あのいじめっ子に逆らうことはできない」
 という後ろめたさからか、完全に、いじめられっ子の描いた、勧善懲悪を皆に刷り込むことができる。
 これほど、完璧な洗脳があるだろうか?
作品名:二人の中の三すくみ 作家名:森本晃次