二人の中の三すくみ
いや、一か所森のようなところがあり、そこに何があるのかと思って歩いていくと、そこには、鳥居のようなものが見えた。
さほど大きくはないのだが、鎮守の森としては、まあまあではないかと思えるようなところだった。
実際に中にまでは入らなかったが、
「これが真夜中だったら、怖いよな」
と感じたのだ。
だが、その森を抜けるとすぐに、いつもの駅と会社の往復に使っている道に出ることができる。
逆にいえば、
「ここまでくれば、一安心」
と言ったところであろうか。
コンビニから、駅までの道と重なるあたりまで、普通に歩いて、20分くらいであろうか? そこから駅までは約15分くらい。明らかに遠回りをしていると感じる割には、時間的にはさほど変わりなないのだった。
さすがに駅までの一直線の道と違って、角度のある道だと、何回、角を曲がったのか、分からなくなるくらいで、真っ暗な中歩くので、大丈夫だろうか? と考えたりもしたが、その日は、満月で回りが明るかったので、それほど意識することはなかった。
最初に、裏路地に入った時に、すでに、
「今日は明るいな」
ということが分かっていた。
ゆっくりと歩いていくと、足元を見て歩けばいいのか、せっかくだから、空を見て歩いたほうがいいのか、実に迷ってしまうのだった。
空を見ると、そこには、まん丸ば月が浮かんでいて、そのあたりを包んでいる雲が、光の加減によって、白黒に見えてきて、その立体感が、まるで、空を作りものであるかのように映し出しているのが、印象的だった。
以前、学校で見た、影絵を思い出した。
影絵はキツネだったが、月面というと、ウサギが有名だ。
「ウサギが、餅をついているような月に、真っ白い雲がかかっていると、次第に雲に影が映ってきて、光の反射がまるで空をウソのように見せる」
と感じたのだ。
それが、小学校で見た影絵に似ているというのは、キツネとウサギという動物繋がりの印象からだろうか? それとも、影絵が思ったよりもちゃちく見えた感覚を思い出したからであろうか?
見えている光景は、地面にも同じものを印象付けるようで、足元の小石に影が映っているように見え、本当は浮かび上がっているはずのない小石が浮かび上がって見えるというような不可思議な状況に見舞われたのだ。
ただ、足元を見ていても、空をずっと見ていても、危ないことに変わりはない。
歩きながら、上を見て、下を見下ろしてと、定期的に見る方向を変えることで、見えているものが、小さいのか大きいのかという錯覚を植え付けてしまうのであった。
たまに下を見下ろしているのに、まるで空を見ているような錯覚に陥るのは、足元の小石に、影ができているからではないだろうか?
影というものは、光の恩恵であるということに変わりはない。ただ、影がなければ、光というものも、自分の存在を示してくれる力を発揮してくれる存在もないのだった。
それを思うと、光と影は、その名の通り、それぞれを補って余りあるものなのかも知れない。まるで男女のようではないか?
【新設】苛め問題
そのまま歩いていると、気が付けば、空ばかり見ていた。足元を見るのは、
「間違って、クリークに落ちないようにしないといけない」
と思うからで、その日の空は、それだけ、
「空を見ていないともったいない」
と思うほどだったのだ。
その日は、それほど風があったようには思えなかったのだが、空に浮かんでいる月が照らしている雲の流れが、結構早いような気がした。
そう思って歩いていると、一瞬、どこかから圧力のある風が吹いてきて、思わず、身体が宙に浮いてしまうのではないかと思った。
「おっとっと」
と、声が漏れてきて、急いで足元を見た。すると、もう少しで、クリークに落ち込みそうになっているのを感じて、ゾッとしてしまった。
そのゾッとした感覚というのは、
「このままなら落っこちてしまったではないか」
という思いではなく、
「よく落ちずに済んだな」
と思ったのと同時に感じた、胸騒ぎのような偶然が恐ろしかったのだ。
まるで、予知能力のようであり、今までにもないわけではなかったが、その時は、ハッとして我に返った時、
「そういえば、最初から胸騒ぎのようなものはあったな」
とばかりに、まるで虫の知らせのような感覚があったことで、自分を納得させていたのだが、この時は、まったく胸騒ぎのようなものを、我に返った時に感じることはなかったのだ。
「この気持ち、どこから来たというのだろう?」
という思いを感じた。
たまに、しかも定期的に起こることで、その時に感じるであろう思いを感じなかったその時、自分がどう感じてしまったのかということで、自分を納得させることができないというのは、
「これほど怖いことはない」
と思わせるのだった。
その時も急にそんな思いを感じ、その思いが、目の前にある得体の知れないものを見ているようで、不気味で仕方がなかった。
しかも、まさかこんな思いに至るなどまったく思っていなかったので、わざわざこっちの道を選んでしまったことを後悔していた。
「別にこの道でなくてもよかったのに」
と、その時は感じた。
だが、本当は、最初からこの道を歩く理由が自分にはあったはずなのに、それが何だったのか、思い出せない。
だから、後になって思い出した時、
「気分転換になるから」
という、まるで取って付けたような理由にしてしまったことで、自分が納得できるわけがないということを理解していたのだ。
そんな夜の道を歩いている時に吹いてきた風、
「これ自体が、何かの胸騒ぎなのではないだろうか?」
その時にはまったくそんなことを感じてもいなかった。
もちろん、夢を見ていたわけではないのに、そのあたりの記憶が後になるとハッキリしてこなかった。そう、意識の中の時系列がバラバラになっていたのだが、逆にいえば、パズルのピースは、どのように組み立てても、うまくいくのだ。
ただ、肝心の最期の一つが、嵌らないのだ。それは、パズルでなくとも同じことで、この状態は、一か所どこかが違っているという感覚になっているくせに、
「全部分解し、最初からやり直さなければ、キチンとできるわけはない」
という風に思い込んでしまっていることが分かっている。
それは、自分の思いをそれ以外にありえないと思い込ませるという、一種の、
「マインドコントロール」
ではないだろうか?
マインドコントロールなどということを考えるというのは、いよいよ、自分が、どこにいるのか分からなくなってきた証拠なのではないだろうか?
このあたりには、さすがに牛小屋や養鶏場のようなところはないが、このあたりの地主であろうか、少々大きな家が点在している。
夜ともなるとさすがに気持ちが悪い。大きな庭に、土蔵のようなものがあり、昔読んだ小説を思い出していた。
その小説は、一人の女の子が、病で土蔵の中に閉じ込められ、そこでずっと暮らしているというものだったが、土蔵というと、湿気があったり、虫が湧いたりと、あまり気持ちのいいものではなかった。