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二人の中の三すくみ

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 もし、疑われるようなことになったら、死体を見たその瞬間よりも、さらにリアルに自分に襲い掛かる恐怖を感じることになる。
「冤罪で、殺人犯になどされたら、どうすればいいんだ?」
 という思いがあり。誰かに助けてもらいたいと思うが、下手をするとその人から助けてもらったとしても、
「今度はその人から狙われることになるのではないか?」
 と思うと恐怖しかない。
 その時に、自分を助けてくれて、犯人を懲らしめてくれる人の登場を待ち望むのは、三すくみの理論とは違っているはずなのに、何か共通点を見つけようと考えることであり、その思いが夢に出てきたのかも知れない。
「自分なら、3つのうちのどれがいいだろう?」
 と考えた。
 三すくみというのは、それぞれが、他の二つに対して、
「片方には、絶対的な強さがあり、片方には絶対的な弱さがあるというのを、トライアングルで循環しているかのようなものである」
 と定義できるのではないだろうか?
 だから、本当なら、自分が強い相手をやっつけるとすると、自分に強い相手が、自分を脅かす相手を食べてくれたことで、自由に動けるようになり、そいつが今度は自分を食べてしまうことになる。そして、自分に強いものだけが、生き残ることになる。
 つまり、三すくみというのは、それぞれ一体しかいないものだとすれば、
「最初に動いたものがいれば、最終的に、最初に動いたものに強いものが勝者となって生き残る」
 ということになる、
 だから、ハッキリいえば、
「最初に動けば生き残ることはできない」
 ということになるのだ。
 では、じゃんけんの場合はどうであろう? じゃんけんというのは、三すくみの動物、一体ずつを一つの密室に閉じ込めておくのとはわけが違う。
 なぜなら、
「あいこ」
 というものが存在するからだ。
 三人でじゃんけんをして、
「二人が、グーを出して、一人がパーを出せば、パーの一人負けで、最後は決勝を二人で行うことになり、逆に一人がチョキを出して、二人がパーを出せば、その時点で、チョキを出したものの勝ちとなってしまう。同じパターンが、グーとチョキの間にもできるのであるが。また、三人がそれぞれで違うものを出せば、皆同じものを出したのと同じで、あいこということになるだろう」
 もっとも、これは3人でじゃんけんをした場合のことであり、二人で行った場合は、あいこがあるだけの、普通の勝負でしかない。四人以上でも、三人とほぼ内容は同じ。ということは、二人以外であれば、あとは、3人以上ということで同じことになるのだった。
 だとすると、じゃんけんというものは、
「3すくみでありながら、相手を抑止して動けない」
 という理論ではなくなる。
 ただ、それぞれの力関係が三すくみだというだけで、それを感が合えると、じゃんけんというのは、確率の証明の道具となると言った、数学的要素が大きいのかも知れない。
 つまり、じゃんけんなどのゲームは、
「基本的に、それぞれが公平に出す」
 ということで、先制攻撃や、奇襲攻撃は許されないのだ。
 であれば、抑止力としての三すくみは、実用的ではないということも言えるのではないだろうか。
 あくまでも理屈の上だけということになる。
 なぜかというと、
「ヘビも、カエルも、ナメクジも、絶対に一体であるということはありえない」
 からである。
 そもそも、それぞれ一体を密室に入れて、そこで様子を見ているというのは、あくまでも実験的要素であり、世の中に、それぞれの動物が一体ずつしかいないということはありえない。
 だから、通常の世の中で、ヘビが動いてカエルを食べたので、ナメクジが残ったヘビを溶かしても、他のカエルが、自分を食べるかも知れない。カエルという動物が一匹減っただけなのだ。
 そして、そのカエルもまた、ヘビの餌食である。
 となると、あくまでも三すくみとは理論上の問題であり、自然の生態系に、何ら影響を与えることはない。
 ただし、そのうちの一角が崩れてしまうとどうなるか?
 何かの影響で、例えばヘビが全滅してしまえば、どうなるか?
 カエルは、ヘビに食われることがなくまり、ナメクジを食い放題ということになり、最後はカエルの一人勝ちになってしまう。
「だが、果たしてそこで終わりであろうか? いや、違う。カエルだけが生き残っても、今度はカエルの餌となるべき、ナメクジは全滅することになるのだ。そうなると、食料のなくなったカエルは、飢え死にしてしまうだろう。結局すべてが死滅してしまうことになる」
 ただ、これは、三すくみの動物が、食料を一つの動物に限った場合の理屈ではあるが、この問題が、生態系の循環という問題である。
 厳密にいえば、これも理論上の問題でしかなく、話としては、フィクションでしかないのだ。
「三すくみというのは、理論ではなく、心理戦だ」
 という人もいた。
 その人は、不知火の知り合いで、
「いや、ただの知り合いではないか?」
 と考える相手、自分が好きになり、そのままずっと気持ちが変わっていない、なるみという女性であった。
 不知火は、今まで好きになった女性は何人もいるが、それが長続きしたことはなかった。
「俺って、飽きっぽいんだ」
 という思いを抱いたのは、女性に対しての感情と、食事に対しての感情からだった。
 食事に関しては、不思議な感覚を持っていて、
「好きなものがあれば、いくらでも続けようと思うのだが、それが止まるのは、飽きた時であった。飽きてしまうと、見るのも嫌になるのだが、それが極端なのだ」
 といえる。
「何が極端なのか?」
 と聞かれると、
「最初は、まったく分からないんだけど、同じように、これは好きだと思って食べ始めても、2,3日で飽きてしまうこともあるようなあっけない感じの時もあれば、逆に、半年続けても飽きがこないと思う時もある。そういう意味での、飽きが来るまでの期間に、相当な開きがある」
 と答えていた。
「なるほど、それは、本当に極端だ。本当に最初はまったく分からないのかい?」
 と聞かれると、
「ああ、本当に分からないんだ。そういう意味で、自分の味覚というのは、本当に曖昧なものなのかも知れないと思うんだよ」
 というと、相手はどこまで信用できるんだろうとばかりに考えてしまっているようだった。
 なるみという女性は、そんな中でも、飽きがくるような気が最初からしなかった。一種の、
「一目ぼれ」
 というものだったが、考えてみれば、今までの不知火から考えれば、いつもは、少しずつ相手を好きになることばかりだったので、一目ぼれというのは、初めてのことではなかったであろうか?
 そんなことを考えていると、なるみの顔が思い浮かんでくる。
 今まで好きになった人を思い出してみると、ちょっと気になるという程度の時は、顔を思い浮かべると、すぐに浮かんでくるのだったが、本当に好きだと思うくらいにまで発展してくると、今度は逆に、すぐに思い出そうとしても、頭に靄がかかったかのように、ハッキリとしないのだった。
作品名:二人の中の三すくみ 作家名:森本晃次