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二人の中の三すくみ

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「ああ、自分は、最初から分かっていたんだ」
 と思うと、スーッと睡魔が降りてきて、いつの間にか眠ってしまっていたのだと思うようになった。
 あの時、頭の中をいろいろなことが走馬灯のようによぎった。思い出した順番はハッキリとしないが、自分の中の時系列で並べると、幼稚園の時の、納屋から落ちてケガをしたあの時。そして中学時代に目撃した、通学路での交通事故。
 だが、その間に何か他にあったような気がすると思っているが、それが何だったのか思い出せない。
 それを思い出そうとは無理にしなかった。
 なぜなら、
「今なら、ゆっくりと寝ることができるからだ」
 と感じたからだった。
 ゆっくり寝ようと思って目を瞑ると、
「夢の中でなら思い出せるんじゃないかな?」
 と思うと、そのとたん、眠りに就いてしまったような気がした。
 その、
「欠落した記憶がどういうものだったのか?」
 それは、たぶん、事件が佳境に入った時に思い出すのではないか? と思うのだった。
「夢というのは、実に都合のいいものだ」
 と、その時、不知火は感じたのだった。
 その日の夢は、覚えていたのかどうだったのか、自分でもハッキリしていない。
 その時に出てきた夢は、十字路に立っている自分がいるところから始まった。
「十字路」
 それを思い出した時、以前に見たと思っている十字路の話が頭の中二あったため、どれが今日見た夢だったのか分からなくなった。
 これは、先ほどの、
「自分の中での時系列に考え直してみると、何か大切なことを一つ忘れてしまったのではないか?」
 という感覚に似ているような気がしたのだ。
 ということは、
「夢というのが、決して時系列で見るものではない」
 と考えられる。
 そして、時系列に並べなおして分からなくなることがあった時は、
「それがすべて夢と繋がっているのではないか?」
 ということで、一つに固まる気がしてくる。
 その、
「時系列の中で一つ抜けているのではないか?」
 と感じたことが、何やら十字路のことのように思えてきた。
 十字路というと、就職してから、この街の駅から会社まで初めて歩いた時に感じたことだった。
 といっても、例の、
「魔の交差点」
 のことではない。
 駅を出てから少し行ったくらいのところにある。小さな三つ角が、その十字路を思い出させた場所だった。
 その場所は、確か小学生の頃だっただろうか? 友達の家の納屋の近くにあった十字路だったような気がする。
「俺は、子供の頃から都会に住んでいたはずなのに、子供の頃の記憶で覚えているのは、どうして、田舎のイメージなんだろうか?」
 と考えてみた。
 大人になって感じるようになったのは、
「夢というのは、覚えていることと忘れていることがある。覚えていることというのは、意外と怖い夢が多い。それだけ怖い夢ほど忘れられないということなのかも知れない」
 と思うのだが、それは、子供だから感じることなのかも知れない。
 怖いことというのが、印象深いことだという証拠や信憑性が一体どこにあるというのか?
 それだけ、子供は思考回路が単純なのかも知れないと思ったが、それは、どこか天邪鬼であるともいえるだろう。
 だから、逆に残ったものとして、
「夢という感覚と、忘れられず覚えているということは。切っても切り離せない感覚であり、それは子供であっても大人になってからであっても、変わりのないものなのではないだろうか?」
 ということが言えるであろう。
 だから、忘れられないことがあれば、それは、夢に見ることであり、忘れてしまうのは、その忘れられないことを演出するためのものとしての材料でしかない。
 だったら、忘れられないものというのは、
「しょせんは、夢でしかないのではないか?」
 と考えるのだ。
 かなり飛躍した考えであるが、この考えがある以上、忘れられないことが夢の中の世界だということをいかに理解できるかが問題ではないだろうか?
「夢というのは、覚えていないだけのことであって、実は毎日見ているのではないか?」
 と考えたことがあるが、これも、何の根拠もなければ、信憑性もない。
 だが、それだけに、夢というものを神秘的に考えることができるというものであり、下手をすれば、
「眠れない」
 と思っていたとして、それはあくまでも、
「眠れないという夢を見ているだけ」
 ではないかと思ったことがあった。
 冗談のような話だが、そう考えると、夢も、
「意識の中の入れ子」
 なのかも知れないと思うのだ。

                 三すくみの問題

 その日の夢で覚えているのは、
「三すくみ」
 というものであった。
 三すくみというと、
「じゃんけん」
 であったり、
「ヘビ、カエル、ナメクジ」
 の話であったりするのだが、この日の夢には、後者の歌舞伎の物語が出てきたのを思い出したのだ。
 それは、
「大蛇丸、自来也、綱手姫」
 の三人を刺している。
 しかも、これは入れ墨図柄の意味という意味での発想であり、
「そもそも、それぞれ三すくみ、つまりは、ヘビはカエルと飲み込むが、ナメクジに溶かされてしまい、カエルはナメクジを食べるが、ヘビに食われてしまう。そして、当然ナメクジはカエルに食われるが、ヘビを解かす」
 という意味で、それぞれが抑止力となって、結果、まったく動けないというものである。
 それを一つの身体に入れることで、それぞれがけん制しあって、お互いを締め付けることになり、その間に挟まれた人間は、絞殺されてしまうという意味合いから、
「一人の背中に、この三つを掘ることは許されない」
 として、忌み嫌うものだということなのだ。
 これは、昔の探偵小説の題材にも描かれたもので、それを利用して犯罪を考えたというのを、なぜかその日の夢で見たのだ。
「どうして、三すくみなんだろう?」
 と考えたが、うまく言葉にできなかった。
「昨日、好む好まざるにかかわらず、人が死んでいるのを目の当たりにしたからだろうか?」
 と感じた。
 確かに、人が死んでいるのを見るのは初めてで、しかも、それが殺人事件ともなると、ショックは大きかった。
 中学時代の交通事故は、大きな事故であったが、その時、救急車で運ばれていったので、少なくとも死んでいたわけではない。
 だが、あの惨状は、死んでいるところを目の当たりにするよりも、恐ろしいものだったといえるのではないだろうか。
 それを思うと、交通事故の惨状は、一度見ると、そのショックが消えるまでには、かなりの時間が掛かることだろう。
 だが、殺人事件に遭遇した時はどうだろう? 人が殺される瞬間を見たわけではなく、あくまでも、死体を見たのである。
「断末魔の表情」
 とはよく言ったものだが、今夜のあの死体の顔をまともに見ることができなかったのは、暗かったということもそうだが、見えたとして、どこまでショックだっただろう?
 それよりも、
「俺はこの事件とは関係ないんだ」
 という思いの方が強く、警察に疑われない状態だったのは、よかったと感じることだろう。
作品名:二人の中の三すくみ 作家名:森本晃次