マイナスの相乗効果
ゆっくりでないと、視界に目のレンズがついていかず、その時点での見えているものが、いきなり暈して見せてくると思ったことで、目の前に見えているものが、何であるのか、分かってくるというものだった。
玄関先は電機はついているが、通路の電気は消えていた。しかし、その奥のリビングに当たる部屋の電気がついていて、一人の男が倒れているのが見て取れた。
その表情はこちらを見つめていて、何よりもその顔が恐ろしい形相であり、
「こういうのを、断末魔の叫びというのかしら?」
と、いかにも他人事のように感じたのは、正直なところであった。
しかし、次の瞬間には、明らかに自分が恐怖で身動きができなくなっていることに気が付いた。後ろから誰も来るはずなどない時間帯なのは分かっているくせに、後ろから誰かに見られているかのような錯覚に陥ってしまったことで、さらなる恐ろしさに見舞われたのだった。
そう思っていると、段階的にまるでコマ送りのように、時間が進んでいくのを感じると、自分が今度はどうすればいいのかということで悩んでいるのを感じた。
このまま中に入って、どういう状況なのかを確認してから、119番なり、110番なりに連絡すればいいのか、それとも、目の前の様子では完全に死んでいるのが見えるので、捜査の邪魔にならないように、110番なのかで迷っていたのだ。
しかし、まったく中に入るすべがないのであれば、迷うことなく110番なのだが、入ろうと思えば入れるこの段階で、表からの判断だけで110番というのは、無責任すぎないかという意識もあった。
その時に取った行動は、なるべく指紋をつけないようにハンカチを手に巻く形で中に入ったのだが、指紋を残さなかったという保証はなかった。とりあえず、中に入って、オートロックがかかる状態にして中に入ったのは、もし、万が一この状況を誰かに見られて、最悪、自分が殺したかのように見えるシチュエーションが出来上がることを避けたからだった。
中に入ると、案の定、被害者は、息をしていなかった。手を触ると、完全に冷たくなっていて、とにかく急いで110番に連絡した。
「事件ですか、事故ですか?」
と聞かれて、
「殺人事件です」
と思わず答えてしまったが、本当に殺人なのか、この時点で言ってもよかったのかとすぐに考えたが、この状況で、さすがに自殺ということはないだろう。
被害者は、胸を刺されて、うつ伏せに倒れているのだ。
目はカッと見開いていて、前述のような断末魔の表情である。
「誰をそんなに恨んでいるのか?」
と考えたが、自分を恨んでいる男に違いないというのは、当たり前の発想である。
「ということは、本人には、誰が自分を刺したのか分かっているのだろうか?」
自分は誰かに刺されたことも、殺されたこともないので、どういう状況で死んでいくのか分からない。
刺された時、ショックで即死ということもあるだろうし、出血多量においてのショック死ということもあるだろう。この現場を見ているだけでは、実際にどっちなのかは分からない。
110番の受付をしてくれた人に自分がどこまでの情報を入れたのか、後から我に返った時にはその時の状況をすっかり忘れてしまっていた。
電話を掛けたという意識と、その意識がさっきだということは分かるのだが、その内容ということになると、まるでこの事件を発見する前の、またその前くらいのタイミングのように思えてしまうのだった。
それを考えると、そこから、実際に警察が入ってくるまでの時間。
「静かに無駄な時間が、無為に過ぎていく」
という意識の中で、じっとしていたが、後から思うとその時間をもっと大切に味わっておけばよかったと思った。
その理由は、警察が来てしまうと最後、慌ただしい雰囲気を作るのが得意な警察によって、その場の雰囲気も時間の感覚までもが、すべてにおいて占有されてしまうことで、自分で何かを考えたり、感じたりする余裕がなくなってしまうということを、その時にはまったく分かっていなかったのだ。
第一発見者の証言
静かな時間が永遠に続くかも知れない。
そんな風に思っていた時間が破られるのは、想像以上に速いものだった。
そう、時間的には20分くらいだっただろうか。終わってしまうと、それまでの底のないほどの静かな時間が、あっという間たったような気がしたのだ。
「ピンポン」
と呼び鈴が鳴ったその瞬間が、その終わりだったのだが、扉を開けると、表に立っている男は二人で、いきなり扉を開けた瞬間に、目の前に警察手帳を提示され、
「これを見せれば、皆までいう必要などないよな」
という恫喝めいたものが感じられたのだ。
刑事と思しき二人は、警察手帳を提示した瞬間、すべての権利が彼らに生じ、その分、「-そちらにあった権利は、こちらが制限する」
と言わんばかりの恫喝だったのかも知れない。
少しだけしか開けていないつもりだったその扉を、一気に引き抜いた刑事は、ひと言、「お邪魔します」
と小声で言った。
そう言ってしまえば、何でもありになってしまうというのは、警察の特権なのだろうか、恫喝された方は相手が警察だと思うとどうしても逆らえないのは、その主婦だけだろうか?
彼女は、歴史に造詣が深く、警察というと、昔の特高警察のようなイメージを以前から抱いていて、戦争批判などすると、どのような目に遭わされたのかということを本で読んだのを思い出した。
あまり、戦争批判をした男が、拷問に我慢をしていると、手を抜くところか、耐えられないような拷問をしてくるという。彼女が読んだ本の中で一番悲惨な状況なのは、
「生爪を剥がす」
というものであった。
それを見た時から、しばらくの間、目を瞑ると、その状況が瞼の裏に浮かんできそうで、恐ろしかった。
その頃から、警察というものは、今の時代であっても、信用できないものだという思いが、自然と残ってしまったのだった。
今回のような態度で入ってこられると、完全に読んだ本にリンクしてしまったかのようだった。そのせいで、この時彼女は、
「瞬きをするのが怖い」
と感じるようになったのだ。
それは、目を閉じると、瞼に浮かんできた拷問のイメージがまた思い出されてしまうという恐ろしさと、もう一つは、一度目を瞑ってしまうと、もう開けることができなくなるというような、根拠のない恐怖から来ていた。
目を開けると、そこは自分の知らない世界が広がっていて、その世界を一度覗いてしまうと、元の世界に戻れなくなるかような、そんな感覚だった。
根拠がないということは、逆に言えば、
「根拠さえあれば、もう疑いようがないということであり、根拠がないことで、疑うことだけは許されるという意味で、余裕があるのかも知れない」
ということであろう。
警察が入り込んで死体を見つけると同時くらいに、今度は今まで二人だけだと思っていたが、扉の向こうから、
「失礼します」
と言いながら、まるでレンジャー部隊のように統率の取れた腕に、F県警察という腕章をつけた集団が、数人入ってきたのだった。