マイナスの相乗効果
ただ、それでも、あまり交流がないのは、今里氏の方も、近所づきあいが苦手なのか、奥さんだけではなく、他の人ともかかわりを持たないようにしていたからのようだった。
まあ、今ではそれが普通だと言えばそれまでなので、別に珍しいことでもなんでもないのだった。
他に分かったこととすれば、死因は、胸を刺されたことによる出血多量からのショック死だということだった。死亡推定時刻も、鑑識が見てから、5時間前くらいだろうということだったので、日付が変わるくらいの時間ではないかということだった。
いわゆる、深夜という時間帯である。扉を開けたままだと、刺された時に声を発したとして、扉が開いていれば、その声が響かないとも言えないだろう。
ということは、殺害までは扉はしまっていて、犯人が出ていく時に、扉にロックがかからないように、留め金をひっかけておくような形にしたのだろう。
なぜそのようなことをしたのかは分からないが、犯行の瞬間から、その後の行動は何となく分かった気がした。
また鑑識の報告によれば、リビングはフローリングになっているのだが、どうやら、本当はもっと血が流れていたということだった。出血多量だったというにしては、床に残っていた血痕が少なかったように思ったので、訊ねると、
「どうやら、拭き取った跡があるようですね。しかも、アルコールのようなもので拭き取っています」
と言って、鑑識はアルコールの入ったスプレーを、いかにもこれを使ったかのように刑事に示したのだった。
それを見た刑事は、
「これは?」
と聞くと、
「この部屋の玄関先にあったんです。きっと帰ってきた時、被害者はこれで毎日消毒していたんでしょうね」
と言っていたこともあって、それがいかにも被害者が潔癖症であることを示してもいたのだ。
もう一つ考えられることとして、現場にあまり争ったと思われる後もなく、さらには、来客があったことを示すようなものはなかった。犯人が後から片付けたというには、ごみとなるものもなければ、コーヒーやお茶などが使われた痕跡もなかった。
となると、
「死体は、どこか別の場所で殺されて、運ばれていたのでは?」
という意見もあったが、それならば、犯人は一人ではなく複数であり、部屋には死体を運びこんだような跡もなければ、防犯カメラにも、怪しい人影があるわけでもない。
真夜中とはいえ、一つの次第を何かにくるんだり、大きな箱の中に入れて運んだりすれば、何かの痕跡は残るはずだが、そんなものもなかった。
やはり、
「他に殺害現場があった」
と考えるのは、あまりにも突飛な発想であるということが分かるのだった。
となると、分からないことが増えてくる。
殺害現場がここでしかないと分かりそうなものなのに、わざわざ、後から床を吹いたりしなければいけないのか? そもそも、死体は早朝に発見されるように仕向けているのだから、逆にいえば、犯人は朝方近くまでいて、5時すぎくらいに掃除に出てくる隣人を、死体発見の人物として選んだのであるから、ギリギリまで潜んでいたと考えるのも普通だろう」
そこで、一人の刑事が何かを思い出したように、
「犯人の目的は、5時すぎに死体を発見させるのが目的だったんでしょうか?」
と言い出した。
それを聞いたもう一人が、
「他に何かあるというのかい?」
と聞きなおすと、
「犯人の目的は時間ではなく、発見者じゃなかったんですか? 隣の奥さんに発見させたいという目的ですね」
というので、
「隣の奥さんに何か事件に関係するものがあるとでもいうんですか?」
と聞かれて、
「そうかも知れないが、そうではないのかも知れない。もし、そうではないとして、逆の意味で考えると、犯人は奥さんに死体を発見させたかったのではなく、発見する可能性がある人の中に、死体を発見させたくない人がいて、その人が発見してしまう前に、隣のおばさんに発見させようと思ったのかも知れませんよ?」
というではないか?
それを聞いたもう一人の刑事は、
「なるほど、それは興味深い考えかも知れないですね。その人は、隣のおばさんのルーティンと知っていて、それならばこれを使わない手はないとでも思ったんじゃないのだろうか?」
と答えた。
「ええ、そうなんです。この部屋はエレベーターにかなり近いところにあるので、奥にいくつも部屋があります。その中に、犯人にとって、第一発見者になってほしくないと思っている人がいると考えればどうでしょう? そう考えると、もう一つの考えが浮かんでくると思いませんか?」
と言われて、
「どういうことですか?」
とまだよく分かっていない様子で、聞いてみた。
「つまりですね? 犯人にとって、その人が第一発見者になっては困るんです。第一発見者になって最初に目立ってもらうと、犯人の計画が揺らいでくる可能性ですね。要するに、犯人にとって、その第一発見者にしたくない人には別の役割を与えていた。つまり自分の身代わり、その人を犯人に仕立て上げたかったじゃないですか? 確かに第一発見者を疑えとは言いますが、すべてにおいてではない。しかも、その人にとって被害者に対して、殺意を抱くだけの十分な根拠があったとすれば、犯人に仕立て上げたい人は、なるべく関わりになりたくないだろうと感じるはずなので、何もなければ、コソコソとしているかも知れない。でも警察にかかれば、そんな裏付けはすぐに得られ、彼が重要参考人となる。そんな時、コソコソ何かをしていれば、犯人と疑うには十分です。そんな人にわざわざ第一発見者になって目立ってもらうと、警察も疑ったとしても、第一発見者として通報したのであれば、すぐに犯人の中から削除してしまう可能性はかなりある。そう思うと、余計なことをしたくないと思うんでしょうね」
と、もう一人の刑事が言った。
水面下の人々
いろいろな発想が殺人現場の近くで分かったことから生まれてきたが、今はまだ、犯罪捜査は始まったばかりであった。そんな中において、次の段階の捜査として、今度は被害者の会社関係者に当たってみることにした。
被害者の会社は、F市中央区にあった。大企業ではないが、業績はいいようだ。そうでもなければ、独身で、都心部からそんなに離れていないこんないいマンションに、一人暮らしができるわけもない。一体どんな仕事をしているのだろう?
会社は、いろいろな会社の経営コンサルタント的なことをしているようだ。
被害者の今里も、そこで経営コンサルタントをしているのだが、何でも、若い頃には、数年海外で経営の勉強をしてきたという。大学も、まず、日本の国立大学の経営学部を優秀な成績で卒業し、今の会社に入り、そして、3年後には海外で勤務の傍ら、有名大学で、さらに経営学を研究するという、エリート中のエリートを歩んできたのだという。
コンサル谷戸会社でも、彼ほどの優秀な社員は少ないということで、
「彼に限ってトラブルのようなことはないと思いますけどね」
ということであった。
ただ、それだけ優秀だと、まわりが近づきにくいということもあるようで、警察がいろいろ訊ねても、実際のところは、どうにも分からない。