二重人格の螺旋連鎖
などということをいうが、あくまでも、フィクションなのだろう。
そんなに甘いものではないに違いない。
足元を見て歩く人は、親では変わることはない。一歩間違うと、余計に殻に閉じこもってしまうだけだということになる。
下を向いて歩くくせは、桜井にもあった。子供の頃に注意はされたが、その時は親が言っていることを、ほとんど、右から左にスルーすることができた。
これが、桜井の長所であり、
「俺って、親が言っていることを怒らずに聞き流せるんだ」
と思うと、他の人の言っていることも聞き流せるようになった。
親からすれば、生意気に見えるかも知れないが、どうせ、親だって保身しか考えていないのだ。だったら、お互いに変な波風を立てないに越したことはない。だから、親子喧嘩もほとんどなく、平和(に見える)な家族だったのだ。
桜井に悪いところがあって、親に注意されたからと言って、
「ああ、親に注意されたんだ」
と思うだけでいいのだ。
そこで変に余計なことを考えて、逆らってみても、親子の口喧嘩では、どちらが勝つということもない。
親の興奮が冷めるか、
「言い過ぎた」
と思って、親が辞めるかしかない。
親が、
「この子には言っても無駄だ」
と思ってくれた方が気が楽なので、なるべくそう思わせるようにしようと、思春期から以降は、親のいうことを聞き流すようになった。
しかも、その素質が自分にあるということが分かったのもよかった。まわりの連中が、
「よかれ」
と思って言っていると言われても、冷静になって考えれば、本当にそうなのかとしか思えない。
まわりは、決して、
「よかれ」
と思っているわけではなく、自分が注意することで、相手に対してマウントを取りたいだけだ。親の保身とレベルは一緒で、
「優位に立ちたい」
という思いからの言葉であろう。
そう思うと。そんな助言も聞き流すようになった。
桜井としては、
「そんなこと、いまさら言われるまでもなく分かってるって」
と言いたいのだ。
さらに、
「今の時点で自分が分かっていないのであれば、まわりから言われたくらいで分かるようなことではないだろう」
と思うのだ。
「今の時点で自覚できていないのであれば、一生自分には理解も納得もできないことであろうから、俺に対しては、誰が何を言っても同じなんだ」
という考えで、これこそが、
「個人至上主義」
ということになるのだろう。
まわりから、自分のことで何かを言われると、急に冷静になれた。冷静になると、まわりが何を言っているのか、他人事のように見えていて、そうなると、イライラもしないというのと、まわりの目的が何なのか分かるというものであった。
保身であったり、マウントを取りたいという思いが、そのほとんどであった。そう思うと、
「路傍の石」
を、なぜ自分が意識しないかということが分かってきた。
それは、路傍の石に限ったことではないのだ。
目の前に見えていることでも、意識しないことって、結構たくさんある。そのうちの一つが石だというだけのことで、それはきっと、
「路傍の石という存在が、誰でもいえる共通点だからではないだろうか?」
と感じたからであった。
他のことであれば、気にする人もいれば、気にしない人もいる。ただ、全体的な割合からすれば、そんなに比率としては変わるものではない。
そう思うと、路傍の石は、誰もが認める、
「見えているのに、意識をしない」
というものの代表選手なのだ。
このストリップ小屋も、意識をしてしまうと、
「なんで、こんなところにポツンとあるんだ?」
と感じることだろう。
これは、桜井の勝手な思い込みなのかも知れないが、ほとんどの人が感じる共通の思いであるかのような、
「路傍の石」
くらいのレベルで、見えているのに、意識しないものなのではないかと思っていることであろう。
ただ、路傍の石との明らかな違いというのは、
「いったん意識してしまうと、今度は意識の中から違和感が離れない」
と感じるものだということだ。
路傍の石はあくまでも路傍の石であり、意識をした時があっても、次の機会で路傍の石を見たとしても、前と同じで、見えているのに、意識をしないことだろう。
前の時に意識をしてしまったということすら、忘れてしまっているに違いない。
それを思うと、やはり、
「老棒の石というのは、本当に特別なものなのだ」
といえるに違いないと感じるのだった。
今までストリップ小屋を意識していなかったということは、これらのことでも分かるというものだ。
一度でも意識をしていれば、いまさら初めて気づいたような感覚になることはないはずだ。いったん意識してしまうと、それを意識した時の記憶が消えるはずがないからだ。
そのストリップ小屋は、本当に昭和のようだった。
ストリップ小屋に入った経験はなかったが、以前に一度、成人映画の映画館には入ったことがあった。
あれは、学生時代だったが、大学の友達と一緒に旅行に行った時、その友達が、
「面白そうだから見てみようか?」
と言ったことで入ることにした。
これが旅行でなければ、そんなことはなかっただろう。
「旅の恥は掻き捨て」
と言われるが、まさにそんな感じで、しかも、友達が行くというのに断ると、自分が旅先で一人になって、不安に苛まれそうに思ったからだ。
どうしても嫌だと思うところであれば、断っているが、
「どっちでもいいや」
と思ったことで、賛成したのだ。
別に敢えて断る理由もない。見たいということでもないが、
「社会勉強だ」
という言葉を聞き流してみたことで、
「まあ、いいか」
と感じたのだ。
相手の自分本位な言い訳を、軽く聞き流すことができれば、それは、自分が嫌ではない証拠だったからだ。
実際に中に入ってみると、真っ暗な中に、本当に汚い映画館だった。真っ暗だから意識しないだけで、それほど広くもない。百人ちょっとくらいしか入れないのではないかという程度の広さでしかなかった。
表から見た広さと中に入って感じた広さには一切の違和感はなかった。それだけ、シンプルなつくりで、どこか懐かしさを感じさせる。もちろん初めてなのに、どこかデジャブを感じたのは、
「過去に見たデジャブではなく、ここのストリップ劇場で感じることになる未来のデジャブ」
というものを感じたからではないかと思うのだった。
未来に起こることをデジャブで感じるというのは、いまだデジャブというもののメカニズムが解明されているわけではないので、このパターンを、心理学者や科学者は、一体、どう証明しようというのだろう?
そんなことを考えていると、あの時に感じたデジャブを、今のデジャブとして感じていたのであり。まるで、人形の中に人形が入れ子になっているという、
「マトリョシカ人形」
のようではないかと感じるのだった。
今までなら意識もしなかったことを、何かの偶然かも知れないが意識をしたというのは、
「見て行けよ」
と言われているような気がした。
しかも、その日は、どこかで時間を潰さなければいけないわけだし、時間潰しには浄土いいような気がした。