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二重人格の螺旋連鎖

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 もっとも、プロフィールをどこまで信じていいのか分からないが、基本的は疑わないよういしている。相手は別に彼女でもない。癒しを与えてくれるというだけの人だということなのだ。しいていえば、
「友達以上、恋人未満」
 という感じであろうか。
 だからこそ、自分なりの礼儀を示すことで、喜んでくれればいいと思い、いつも差し入れを持っていくことを忘れなかったりする。
「あくまでも、疑似恋愛なのだ」
 という意識を持つようにしていたのだ。
 そうは言っても、一緒にいれば、
「まるで自分の恋人なのではないか?」
 と勘違いしてしまうことがある。
 マジ恋と言ったりするらしいのだが、一歩間違うとストーカーになってしまわないかということも怖い。部屋に入る前に、たいていは、禁止事項を確認して入っているが、毎回のことなので、いちいち覚えているということもない。
 逆に言えば、覚えていないということは、それだけ、
「世間一般の倫理に反しさえしなければいいのだ」
 というようなことだ。
 基本は、女の子を守るというのが禁止事項なので、ストーカー行為や、嫌がる行為などは厳禁なのも当たり前、特に嫌がる行為というのは、説明文を見ながら、スタッフが声に出すというほどの基本中の基本だ。
 客の方としても、女の子にお金を払ってサービスをしてもらうわけなので、女の子の機嫌を損ねれば、せっかくお金を払ってのサービスも、心が籠っていないということになるだろう。
 そうなると、まったく楽しくないといってもいい。
 客は癒しを求めに行っているのであって、別に女の子を蹂躙したいという思いで行っているわけではない。もし、自分がSで、女の子にMの関係を求めるのであれば、そういうサービスがコンセプトの店にいいわけである。
 実際にそういうコンセプトの店は存在しているのだ。
 そもそも、SMというのは、中世の貴族の遊びだったっという。
 ある意味、
「高貴な遊び」
 だといってもいいだろう。
 特にSMというのは、相手を傷つけるところまではいかない。性的な興奮を、SMという感情で、満たそうとするものなのだ。つまりは、
「とても、危険な遊び」
 なのだ。
 つまり、ルールを守り、キチンとした知識やプレイ技術のようなものを持っていないと、危険なのである。そういえば、江戸川乱歩先生の、
「D坂の殺人事件」
 のような真相を思い出させるのであった。
 読書を趣味にしている桜井だったが、最初に読むようになったのは、昔の、
「探偵小説」
 だった。
 時代は、大正から昭和、つまり、戦前から戦後にかけての探偵小説も、結構面白いものがあった。
 しかし、時代が時代なだけに、当局から、
「探偵小説のようなものは、書いてはいけない」
 というお達しがあり、すでに出版されているものは、絶版にされたり、探偵小説を書けないということで、違うジャンルの作品を書いたりしていた。
 有名な探偵小説家が、一部時代劇を書いていたりするのは、戦争中の出版規制に遭い、仕方なく、路線変更せざるを得なかったということである。
 それを思うと、戦前の混乱やドロドロしたものが好まれた時代から、180度変わったといってもいいだろう。
 江戸川乱歩は、そんな大正時代から、昭和初期に活躍した作家で、それ以降は、少年物などや、探偵小説評論などと言った多岐にわたる活躍を示していたのである。
 この作品も、大正時代に書かれたもので、時代背景としては、まだ、大震災からの復興真っ最中で、時代としては、暗い時代だったといえるだろう。あの時代も今同様、マスクをしている人が多かったのである。

                 ブームの興亡

 風俗街に通い始めた桜井は、馴染みの店はできたが、相手をしてもらう女の子を決めているわけではない。いわゆる、
「おきに」
 というのがいるわけではなく、フリーで選んでいた。
 その日は、いつもよりも早い時間にお店に行ったのと、時間が夕方にもなっていないほど早かったことで、まったく待たされることもなかったことで、その日、退店した時間は、まだ、夜のとばりが降りる前であった。
 普段であれば、すっかり夜のとばりが降りている時間で、かなりお腹が空いているので、歓楽街のあたりで、食事をしていたのだった。その時間帯になると、すでにディナーのピークも過ぎているので、店もゆったりとしていた。しかし、この日は、ディナーの時間帯に見事に嵌っているので、かなりの客がいて、待たされることも必至に違いない。しかも、それほど空腹な状態ではないということで、
「どこかで少し時間を潰そうか?」
 と思った。
 普段なら、一切気にすることもないはずで、実際に今までに何度も目の前を通り過ぎていたのに、そこにあるという意識すらなかった店が存在していた。ソープ街から、完全に抜けてはいるが、歓楽街までは入っていないという微妙なその場所に、まわりはキレイなソープ街とは対照的な、いかにも昭和を残した、いわゆる、
「小屋」
 と呼んでもいいような、劇場があった。
 ネオンサインは、煌びやかであるが、それだけに、鄙びた小屋が、いかにも昭和を感じさせるのであった。
 その小屋というのは、ストリップ劇場であり、確かにこの場所にはいかにもふさわしくないような佇まいであったのだが、逆にいえば、どこにあっても、明らかに違和感しかない建物は、この場所だから、いつもの桜井のように、
「見ていたとしても、意識されない」
 という場所という認識になるのかも知れない。
「路傍の石」
 という言葉があるが、まさにその通りである。
「路傍の石」
 というと、目の前に石ころが落ちていて、そこに視線を向けたとして、
「こんなところに石がある」
 と言って、わざわざ意識する人がいるだろうか?
 普通の人は、足元を見ながら歩く人はあまりいないだろうから、意識するどころか、目が行くということも珍しいのだろうが、人によっては、くせで足元ばかりを見て歩いている人もいる。
 子供の頃から、
「ちゃんと前を見て歩きなさい」
 と言われるであろうが、それは、親など大人が見て、足元ばかりを見て歩いている人の姿がみすぼらしく、情けない人間に見えるからだろう。
「自分の子供にはそんな風になってほしくない」
 という思いから、親はいうのだろうが、その言い方は、あたかも、汚いものを見ているかのような雰囲気であった。
 だから、子供は余計に、自分に対して卑屈になる。
「俺のことを、ごみや汚物のようなものだと思って見ているんだ」
 と思い、
「そんな汚いものが自分の息子だとまわりに知られたくない」
 ということで、子供ことを思ってというよりも、あくまでも、
「保身のために言っているだけなんだ」
 と、思うことだろう。
 そんな親なんて、誰が親と思うものかと感じたとすると、お互いに、それ以降、気持ちが通じ合うことはないだろう。
 親子なだけに、行動パターンや性格が似ていることで、一度すれ違ってしまうと、決して平行線は交わることはないということで、修復不可能な関係になることだろう。
 そういう意味で、親子関係というのは、ドラマや映画などで、
「親子だから分かり合える」
作品名:二重人格の螺旋連鎖 作家名:森本晃次