二重人格の螺旋連鎖
というのも、この3年間を時系列に沿って、一つの塊だと考えた時、そして、その節目ごとに、分割して時間を考えた時、それぞれで違うのだ。
たった、数年しか経っていないのに、
「どの節目が、前だったのか、後ろだったのかをすぐには理解できなかった気がする」
というのは、
「節目というものが、3年というひと塊で考えると、キチンとした時系列で考えられるのに、節目を一つ一つで考えると、それが最初だったのかということが分からなくなる」
のだった。
そんな思いがいくつかの層になっていくと、自分が何を考えているのか、分からなくなってきた。
これが一つの節目でもあるのだろうが、急に立ち止まってみて、今まで歩いてきた道を振り返った時、
「もうこんなにも来ていたんだ」
という、実際には来ているわけでもない道に対して、普段では感じることのない達成感を感じてしまうだろう。
その思いがいいことなのか悪いことなのか分からないでいると、立ち止まってしまったことを後悔することになるのだ。
これが、節目において、
「考えてはいけないことなのではないか?」
という思いに至らせることになるのだった。
そんな桜井の今まで、順風満帆だった会社での、実績が、少し揺らいできたのだった。これまでは、仕事において、少しへまをしても、大きな問題にもならず、ちょっとしたことが、会社への功績ということになって、大げさに表彰されたりした。
仕事が楽しいと思えた理由でもあったが、それを、
「これは偶然などというものではなく、自分の実力なんだ」
と考えるようになっていたのだ。
しかし、それが幻想であったということを、就職してから四年目で、早くも思い知らされたのであった。
あれは、あるイベントの手配を任された時、いつものように、キチンと漏れなくやったはずなのに、自分のミスではないが、自分がお願いした業者の方がミスをしたのだ。
さすがに慌てて、まわりがうまくフォローしてくれたおかげで、大した騒動にもならずに、うまく切り抜けることができたのだが、その頃から、それまでキチンと噛み合っていた歯車が狂い始めた。
最初はまわりが、うまく噛み合わないことで、自分のせいだとは思わなかったことで、うまく乗り切れたと思っていたのだが、さすがに、2度、3度と続くうちに、精神的に、ストレスが溜まってきた。
「何で、こんなにイライラするんだろう?」
と、最初はそれが仕事でうまく行っていないことだということにも気づかなかった。
会社を離れると、仕事のことは忘れるというのが、モットーだったので、大好きな本を読んで過ごすことにしていた。
だが、本を読んでいて、イライラしてくる。本の内容も少々重たい内容になると、次第に読みたくなくなっていた。
それまでは、少々重たい内容でも、別に、一つのジャンルだということで読みにくいとも思わなかったが、その頃は読んでいるうちに、小説を読んでいるはずなのに、まるで、難しい何かの専門書でも読んでいるかのようだった。それこそ、大学の試験で、読みたくもない難しい専門書を読んで勉強していた頃は、読書すら、敬遠していたほどだった。
読書をしていて、苛立っていることが分かった時に、気づくべきだった。後から思えば、気づいていたとしても、どうなるものでもなかったかも知れないと感じたりはしたが、対策くらいは考えようとしたかも知れない。
とにかく、趣味として、好きなことであり、気分転換にももってこいだったことが、さらに苛立ちを増加させるようなことになるというのは、尋常ではないだろう。
そして、その頃になると、今まで何も考えずにうまく行っていたことも、うまくいかなくなってしまった。
「何で、こんな極端な転落になってしまったんだろう?」
と感じたが、
「歯車が一個狂うと、すべてが噛み合わなくなるということの証明だ」
ということを、結構早い段階で分かっていたはずなのに、それでも、何もしなかったのは、
「今がうまく行っていないだけで、そのうちに元に戻る」
という思いと、
「今までうまく行っていたのは、必要以上に動かなかったからで、それは自分を信頼していたからだ」
という思いがあったからだ。
自分を信頼することが、好機に繋がるということを信じてしまうと、無理に動くことが怖くなってくる。
そう思って、何もしないで、この悪い流れが通り過ぎてくれるのを待っていた。
しかし、この3年間があっという間だったように思えたことで、歯車が狂ってから、まだ1カ月ほどしか過ぎていないのに、もう数年、こんな泥沼にはまってしまったような気がしたのだ。
「数年の感覚でいるのだから、そろそろこの自体に慣れてくれてもいいはずなのに」
と感じるようになり、自分がまったく時間の流れや、長さについて意識していないことに気づいていなかったのだ。
気づいていたのは、無意識に感じている時だけであり、それは、精神的な余裕から生まれるものなのではないだろうか。
それを思うと、一つのことがうまくいかないと、それがすべてに影響してくるのも分かっていたんだろうと思う。何しろ、何もしなくても、うまく行く時は行っていたのだから、一歩間違うと、すべてが狂ってくる可能性だってあるのだということを、覚悟していたはずだからである。
だが、そのことはすべて、沼に嵌ってしまってから気づいたことだ。沼に嵌ってしまうと、あがけばあがくほどうまく行かない。かといって、何もしないというのも、自殺行為であり、ただ、なぜか、その時の桜井は、自殺行為を選んでいたのである。
「どうせ、仕事でうまく行かなくなったとしても、命を取られるわけでもない。下手にあがいて抜けられなくなるよりも、これ以上最悪にしないようにするには、動かない方がいいんだろうな?」
と、考えたのだった。
こういう時に趣味をすればいいというのは、普通の考え方で、
「趣味というのは、精神的にゆとりのある時にするから、楽しめるんだ」
ということであった。
前述のように、せっかくの想像力が悪い方に働くと、せっかく楽しいと思えることが、逆効果になる。それは、リアルな感情が生まれてきて、ミステリーや、オカルトなどはもちろんのこと、恋愛小説や青春小説であっても、普段の息苦しさから逃れようという思いが子供の頃にはあったが、リアルさがなかったことで、妄想はいい方に作用してくれたのだが、大人になると、いろいろ分かってくるので、妄想は、リアルさを含んでくる。そうなると、思いは、重たいものになってしまい、読むことがつらくなるのだ。
そういう意味で、趣味というものは、一歩間違えると、もろ刃の剣なのかも知れない。
もし、これが、ゲームなどでストレスを発散できるような、他の連中のような性格であれば、どんなにいいだろうと考えたものだ。
あれだけ一日中ゲームをしていても、飽きもこないし、集中できる。実に羨ましく感じられた。
そういう意味で、
「他の人と同じでは嫌だ」
という自分の性格が、あだになる時が来るなど思ってもみなかった。