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二重人格の螺旋連鎖

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 どうやれば、最後まで行けるのか、それをどこで調べればいいのかが、そもそも分からない。自分の中にゲームというものに対しての偏見があるのも事実で、偏見があることから、
「どうして俺がゲームごときで調べなければいけないんだ?」
 という、すぐに億劫になるというくせが顔を出してくる。
 そう思うと、読書のように、
「読み終えること」
 という単純なことでの達成感の方が、シンプルであり、それが最高なのだと思えるのだった。
 マンガの場合は、ゲームのような煩わしさはないが、逆に、ビジュアルに訴えることから、
「想像力が掻き立てられない」
 ということから、あまり興味が湧いてこない。
 それでも、小学生の頃まではあ、結構マンガを見ていた。しかし、マンガを見るのは子供の頃までで、思春期を迎えた頃から、急に面白いとは思わなくなったのだ。
 一番の理由は、絵に対してであった。
 正直にいうと、絵のタッチが、桜井の嫌いなタッチだった。劇画調のものであったり、恋愛マンガによくあるタッチなのだ。
 つまり、
「よくある」
 という言葉が鬼門であり、
「皆同じ絵にしか見えない」
 というのが、理由だった。
 要するに個性が感じられないのだ。作者が違っても、皆同じ絵に見えてくる。一度そう思うと、その思いを払しょくするのは難しく、どんどん、そう思えてくるのだった。
 そうなると、
「想像力というものがまったくなくなってくる」
 という思いがまずは生まれた。
 そして、その頃になると、
「個性というものが、芸術には大切なんだ」
 と思うようになった。
 これは、思春期に入ったからだという理由であったり、他にきっかけがあったわけではなく、マンガを見て、皆同じ絵に見えることで、急につまらなくなった理由を考えた時に生まれたことだったように思う。大人になって思い返すと、その思いがそれぞれに効果を与え、相乗効果として表れてきたのではないかと感じたのだ。
 マンガというもの、ゲームというもの、正直、今の子供の一数アイテムともいうべき、2つの趣味となるべきものを自分から遮断したことで、読書に出会えたことで、読書がまるで、救世主のように思えた。
 ゲームに感じた、わずらわしさや、そのわずらわしさを乗り越えないと達することのない達成感を味わえない思いはない。
「ひょっとしたら、ある一線を越えれば、自分もゲームにのめり込んで抜けることのできないほどの興奮を味わえたかも知れない」
 と思ったが、後から思えば、ゲームにそこまでのめり込んでも、何ら得なことはないというのが、結論だ。
「最後まで行ったとして、ラスボスを倒せたとして、達成感以外の何があるというのだ?」
 と感じた。
 何と言っても、大人が見て、
「ゲームばかりしていて、何になる」
 という気持ちが分かる気がしたからだ。
 だからと言って、自分が大人の味方だというわけではない。逆に自分は、
「大人になんか、なりたくない」
 と思う方で、大人になることは、避けて通ることのできないものだが、果たして、その年になった時、
「大人とはどういうものなのか?」
 ということが分かることができるのだろうか?
「大人になると、子供だった頃のことを忘れて、子供を悪くいう」
 ということをよく聞くのだが、自分はそんな大人になりたくないという子供はたくさんいる。
 ほとんどだと言ってもいいだろう。
「それなのに、大人になったら、どうして、その頃のことを忘れてしまったかのように、子供の気持ちを分かろうとしないのか?」
 大人になると、子供の頃の勇ましい気持ちを本当に忘れてしまうのだろうか? それとも、大人になると、大人の事情で、雁字搦めになってしまい、自分がいかに損をしないか、あるいは、ひどい目に遭わないで済むかということしか考える余裕がなくなるからなのだろうか?
 そんな風に考えるようになった。
 入社してから3年が経った今というと、子供で考えると、まだ、やっと、幼児を抜けたくらいではないか、このあたりから、物心がついてきて、後々の記憶として残っていくのが、幼児というものだ。
 という風に考えると、
「子供が大人になって、自分が親になったりすると、自分の子供の頃を忘れてしまうというのは、目の前の子供と、自分の子供の頃の意識を重ねようという無理なことをするために、子供の頃の記憶や意識が、まだ物心がついていなかった時期のように思えてきて、覚えていないのかも知れない。もしそうだとすれば、子供時代のことを棚に上げてしまうのは、実は無理のないことなのかも知れない」
 という思いも湧いてくるのだった。
 それもひょっとすると、大人になってから感じた。
「自分を納得させたい」
 という感情から来ているのかも知れない。
 それだけ、大人というのは、
「自分を正当化させ、いかに楽になろうとするかということばかりを最優先にするようになったのではないだろうか?」
 と感じた。
 だから、社会人になってからというもの、学生時代から一度リセットされてしまって、0歳から、やり直しているという考えも成り立つのかも知れない。
 ただ、そう思ってしまうと、それまでの、20数年という年月が、まったくの無意味だったということになるのを恐れて、リセットということを考えたくないのだろう。
 だから、子供の気持ちが分からなかったり、会社に勤めても、ある一線を越えれば、うまく機能していくはずなのに、そこまで我慢できずに、リタイヤする人も多いということだろう。
 それが人間であり、人間の弱いところだといえるのではないだろうか。もし神様がいるのだとすれば、
「なんと、神様って、むごいものなのだろう?」
 と考えたとしても、無理もないことではないだろうか。
 社会人を3年も過ぎると、物心がついてくる。それまで毎日が、自分の仕事だけで精一杯で、先輩の助けがなければ、やってくることができなかった。それこそ、幼児が親に育てられているということと類似しているのではないだろうか。
 3年目からは、今度は自分がまわりを見て、先輩がしてくれたような気づかいをできるようになって、自分が後輩を助けるようになる。まるで、弟か妹ができた時のような感覚ではないだろうか。
 そういう意味では、部長が入社した時に言っていた、
「それぞれの節目」
 というのは、入社の時なので、一つの例として、会社を続けるということを例に出したが、実際にはそれだけではなく、会社において仕事をするだけではなく、全体的な節目が個人差はあるだろうが、決して避けて通ることのできない結界のようなものが立ち塞がっているということを言いたかったのではないかと思うのだった。
 桜井はそのことを考えていると、確かに今までに何度か節目があったように思えた。そのたび、何とか乗り越えてきて、その節目を、目の前に来た時にすでに分かった時、そして、まさに乗り越えている時に、
「これが節目なんだ」
 と思う時、さらに、乗り越えた後になって、
「あれ? これって節目だったのかな?」
 と、後から考えることだってあるだろう。
「それを考えると、3年間というのが、長かったのか短かったのか、よく分からなかった?」
 ということであった。
作品名:二重人格の螺旋連鎖 作家名:森本晃次