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二重人格の螺旋連鎖

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 例えば待ち合わせ場所が駅だったりすると、黒板や伝言板があったりする。そこに、前もって書いておくということができるくらいであるが、それも限界がある。どうしてもいけなければ、相手を待たせることになり、理由いかんによっては、けんか別れの原因になってしまう。実に悲しい結末ではないだろうか。
 そういう意味では、今の時代、携帯電話があれば、どこからでも、連絡が取れる。実に便利な時代になったものだ。
 しかし……。
 それは、新しいものができて、メリット部分しか見ていないからだ。実はデメリットの部分も結構大きかったりする。
 そう、何か用事ができれば、どこからでも相手に連絡を取ることができるということは、逆に言えば、
「どこから連絡を入れたか分からない」
 ということだ。
「そんなことは当たり前じゃないか?」
 と、一蹴する人がいるだろうが、これが何を意味しているのか考えないのだろうか?
 つまり、
「アリバイ工作に使える」
 ということである。
 今のように、親が子供の安否のため、GPS機能で相手の位置を分かっていれば別だが、普通は絶対にありえないことだ。
 だから、例えば、恋人同士が待ち合わせをしていて、
「今日は仕事で急にいけなくなったんだ」
 と言ったとしても、相手には、
「彼は会社からっ仕事中に掛けてくれたんだ」
 とは思うだろう。
 しかし、その証拠はどこにもない。会社の固定電話から掛けて、その番号が彼女に通知されない限り、どこから掛けたのかは分からない。
 ひょっとすると、浮気相手と、これからラブホにしけこむのかも知れない。つまりそれを信じるか信じないかは、彼女の裁量にかかっている。
 もちろん、それだけ普段から、
「俺はウソをつかない」
 ということを相手に刷り込んでおいたのであれば、分かるのだが、そうでなければ、あまり何度も同じことを繰り返していると、そのうちにバレてしまうことになるだろう。
 そのことを、どちらも分かっているのかどうかが問題だ。
 この後二人がどうなるかは知ったことではないが、要するに、携帯電話の普及が、便利なことは間違いないが、もろ刃の剣のように、一歩間違えれば、悪用されてしまい、それがバレれば、修羅場になることが分かり切っているということである。
 その典型例が、SNSにおける、誹謗中傷ではないだろうか?
 テレビタレントが、誹謗中傷を浴びて、自殺をしたなどということをよく聞いたりもする。
 その時になって、まわりは、
「自分も同じような経験をしたことがある。だから、自殺した人が可哀そうだ」
 というようなことを書きこむ連中がいるが、それを見ると、情けなく感じるのは、桜井だけだろうか?
 というのも、
「誰かが死ななければ、社会問題にならなければ、そいつらは、黙っていたということになる」
 と考える。
 つまりは、まるで善意の第三者のごとくに書き込んでいるが、誰かが身を挺して訴えてくれたから、自分たちが言いやすくなったのである。
「人の死を踏み台にして、その人たちは、いかにも自分が善人であるかのように、その時になってやっと出てくる」
 それこそ、最悪の偽善者ではないかと思うのだ。
 だから、誹謗中傷で自殺をした人の関係者などは、皆同じことしか言わない。この時とばかりに、自分を正当化しようと必死なのだ。
 どうせ、そんな連中に、自分が何をしているかなどという意識があるわけもない。それを思うと、実に虚しく感じるのだ。
 そんな時、民主主義の限界を感じる。
 民主主義の基本は、
「自由競争と、多数決」
 だといってもいいのではないだろうか。
 この多数決ということ、これこそが、差別を生む原因ではないか。自由競争では、格差社会を生み出し、多数決では、差別を生み出す。だからこそ、社会主義という考えが生まれたわけで、ただ社会主義は、恐怖政治の元にしか存在できないようなところがあり、そこには自由はありえない。
「果たしてどちらがいいのか?」
 ということになるが分からない。
 ただ、民主主義というものが、一番いいのだといって胡坐を掻いていると、結果、今のような社会を作りだしてしまう。
「多数決」
 聞こえはいいが。
「少数派意見は、握りつぶす」
 ということである。
 2万人が投票して、2票差で決定しても、9999票は、まったく無視されることになる。それが民主主義というものだ。
 確かにそうやって今までやってきたのだろうが、それによって、まったく違った社会が作られることになるのかも知れない。
 10001票の中の半数以上が、
「あの時、反対に入れていればよかった」
 と後悔しても、もう遅い。
 あの時点で決めたのは、自分たちの一票だったのだ。
 なぜなのか、社会は歴史に学ぼうという意識のある指導者が今はいない。結果はどうあれ、昔の指導者は、過去の歴史を鑑みて、真剣に、国を憂いて動かしてきた。大東亜戦争に突入した時だってそうだ。何度も机上演習を行い、無謀な戦争に突き進んだ場合、いかに有利に講和を結ぶかということまで青写真を練ってから、突入したはずだった。ただ、緒戦での勝利があまりにもすさまじく、世論を敵に回すことができないことで、停戦の機会を逸したのが、あの戦争の失敗であり、戦争に突入してしまったことが、そもそも悪いと思っている人が、たぶん、ほとんどであろう。
 それは勉強をしないからそう思うのだ。
 いろいろな本を読んだり、それこそ今であれば、ネットでいくらでも出てくる情報である。
 そもそも、今の教育は、占領軍によって、それまでの天皇中心の、
「立憲君主制」
 で、軍部の力が強かった日本ということで、アメリカ式の民主主義というものを植え付けられたことで、そんな教育になった。
 ある意味、それも極端である。
 日本の将来、国の行く末を憂いて、戦争に突入した真相を間違った認識で教わることが、どれほどの罪なのか。さらにもっと悪いのは、占領軍から独立した国家において、政府も占領軍の教育をそのまま受け継ぐ形でここまで来たのだ。占領軍、連合国の理屈というのは、あくまでも、
「勝者の理論」
 でしかないのだ。
 第一次大戦の際、その、
「勝者の理論」
 で、20年もしないうちに、世界がまた大戦争に突入したことを、踏まえたとしても、それでも、結果は、
「勝者の理論」
 でしかないのだった。
 現代は、どんどん世の中が便利になってきているが、一歩間違えれば、その先にある踏み込んではいけない領域であったり、開けてはいけない「パンドラの匣」を開けてしまうということになりかねない。
 そのことを、どこまでの人が分かっているかということである。
 原子力だって、平和利用のために開発されるべきものを、いくら時代の流れだったとはいえ、戦争に爆弾として使われてしまった。
 それが、結局、東西冷戦において、核開発競争という、いたちごっこが始まり、
「使わなくても平和は守れる」
 などという神話は、最初の核爆弾が落とされてから、20年も経たない間に、
「絵に描いた餅だった」
 ということが証明された。
 それが、キューバ危機だったわけである。
作品名:二重人格の螺旋連鎖 作家名:森本晃次