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耽美主義の挑戦

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 さすがに女房も耐えられなくなったのか、実家に帰ってしまった。舞鶴も、無理に連れ帰ろうともしない。
「相手がどう出るか?」
 というのを、見守っているだけだった。
 きっと、実家の嫁さんの親も、
「変な家庭だ」
 と思ったことだろう。
 きっと、女房も親には何も言わないはずだ。というのも、女房自身がなぜこんなことになったのか分からないからだろう。
 そのうちに、女房の方がキレてきた。そして、
「離婚しましょう」
 と言って、離婚届を突き付ける。
 離婚の理由はどこにあるのかなど関係ない。舞鶴も、送ってきた離婚届に判を押して、そのまま役所に舞鶴が持って行った。
 離婚に際しても簡単なものだった。
「結婚の時に持ってきたものは、私の方で引き取らせてもらいます」
 と言って、日を決めて、女房が引き取っていった。
 残ったものだけで、生活していくことは別にできるので、困ることはなく、舞鶴は面倒なこともなく、離婚したのだった。
「離婚って、結婚の数倍疲れるというが、俺はそんなことはなかったな」
 と、舞鶴は感じた。
 お互いに慰謝料請求もなく。無事に離婚に至ったのだ。
「こんなに簡単に離婚できるんだ」
 と思うと、なるほど、離婚する人が多いわけだと、感じたのも、無理もないことであった。
 これは、結婚3年目くらいで分かったことだったが、女房が不倫をしていたなどというのは、あくまでも、舞鶴の一方的な思い込みだった。
 だからと言って、一度冷めてしまった思いを引き戻すことはできない。女房の方も、必死で舞鶴にしがみつこうとはしなかった。すでにその時には、課長に相談することもなくなっていて、実際に男性と付き合っているわけでもなく、女房自身も、何か、
「一人の時間に、目覚めたのではないだろうか?」
 と感じたのだった。
 結婚から離婚までが5年。あっという間だったような気がしたが、思い出すと、思い出せない部分が多すぎる。離婚経験のある人が、結婚していた時を思い出す時というのは、こういうものなのだろうか?
 離婚してからの舞鶴は、完全に彫刻の世界に嵌っていった。
 実は、離婚問題が深刻化していた時期、すでに彫刻では、少し才能が開花し始めていた。
 といっても、あくまでもアマチュアという意味でのことであり、彫刻教室のコンクールでは、市の代表の一人に選ばれたりしていた。
 先生からは、
「なかなか奇抜なアイデアが、選出の理由だということなので、その才能を磨きながら、基本をしっかりマスターしていけば、なかなかいい彫刻をどんどん作っていくことができるでしょうね」
 と言ってもらっていた。
「ありがとうございます。頑張ります」
 ということで、自分のやってきたことが間違っていなかったという思いを再確認できたことと、離婚問題を抱えていることで、
「このまま、離婚しても、俺には彫刻の道があるんだ」
 という思いがあることで、
「俺としては、どっちに転んでも悪いようにはならないさ」
 と思っていた。
 だから、女房に未練はなかったし、逆に、勘違いではあったが、あの時、確認しようと思わなかったのは、事実を知るのが怖かったからだと思っていたが、よく考えれば、
「女房のことを、それくらいにしか思っていなかった証拠ではないか?」
 と考えると、女房を疑ったことを、悪かったとは思わなかった。
「そもそも、相談事があるなら、俺になぜしないんだ?」
 と思ったのだ。
 もっとも、一番できる相手ではないのが、夫である自分だったのだということに気づかない自分が悪いのだろうが、それも、結果論である。
 離婚が成立した時も、女房に対しての思いは何もなかった。相手もまったく表情を変えていなかった。気持ちの上ではスッキリしていたのかも知れない。
 なぜなら、それは自分も同じことで、
「俺は自由なんだ」
 と、思ったが、そう思った瞬間、妙におかしな気持ちになった。
 だから、離婚をして自分が自由にはなったが、
「自由なんだ」
 とは、思わないことにしたのだ。
 とりあえず、彫刻を頑張ることにしたのだった。
 舞鶴は、一日のうちの一時間を彫刻に費やすようにした。
 最初は、
「休みの日だけ、数時間費やせばいいか?」
 と思ったのだが、離婚してから、毎日無為に時間を過ごしているのを感じた。
 それは、自分が自由であるはずなのに、自由であるということを感じると、おかしな気分になるからだった。
 だから、一日の終わりに、充実感を味わって終わるようにしようと思うと、ちょうど、仕事から帰って、諸々の用事を済ませてから、一時間ほど彫刻をすれば、寝る前の一日の終わりを、充実感で終われるようになった。
 その思いがそれまでになかった、自由だという思いを名実ともに、証明してくれているようだ。
 つまりは、充実感がなければ、自由というのが、中途半端でしかないということに気が付いた。
 自由というものを、離婚という代償を払って手に入れたからなのだろう。そう思うと、自由というのは、
「必ず何かの代償を伴うものであり、自由だけではない充実感を得ることができなければ、自由というのは、本当の自由とは言わないのではないか?」
 ということだと感じたのだ。
 確かに考えてみれば、自由だけがあっても、ただの空白の匣ではないか。その匣の中に、何を入れるかというのが大切であって、匣の中に何が入っているかということや、匣を持ってみて、重みを感じることで、自由を得ることができたという思いを、初めて感じることができるのであろう。
 それを思うと、彫刻に勤しんでいる自分の姿が、まるで影絵のように見えてきて、後ろの背景が明るくなってくるのを感じた。
「この明るさが、俺のこれからを暗示しているんだ」
 という妄想を抱くようになったのは、それが、
「個人至上主義」
 だという証明なのだと思ったからだった。
「人と一緒にいるのが嫌だ」
 と感じた時期が、今までにもあったような気がした。
 今は、嫌だというよりも、億劫だという感覚なのだが、以前に感じた、嫌だという思いとは若干違っているように思う。
 その感覚は、身体がムズムズする感覚だった。だから、誰かがそばに寄ってくると、感覚がおかしくなるのを感じたからだ。
 それが性欲だということを知ったのは、それからしばらくしてからだったような気がする。
「そうだ、あれは思春期だったんだ」
 ということを思い出した。
 性欲という言葉で思い出したのだが、自分の中では、思春期と、性欲というのは、ほぼ同意語に感じられた。
 つまりは、
「思春期とはどういう時期なのか?」
 と聞かれると、
「性欲を身体全体で初めて感じられるようになった時期だ」
 と答えるだろう。
 自慰行為をしたのも中学時代。白い液体が出てきて、ビックリしたものだった。だが、まるでサルのように、痛くなるまで自慰行為をしたのを思い出す。果てた後の憔悴感が、身体のだるさを感じさせ、身体のだるさは、全身が性感帯になってしまったことを思わせる。
 それが思春期であり、性欲と同意語だ」
 と思わせるゆえんであった。
作品名:耽美主義の挑戦 作家名:森本晃次