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耽美主義の挑戦

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 ここから先の話を無理にしようとすると、小学生の喧嘩のような、泥仕合になってしまうことは免れない。そう思うと、男女平等というのも、ひと言で片付けられないということになるだろう。
 男女平等というのを、考えてしまうと、ウンザリくる。確かに、言いたいことは分かるが、必要以上に煽ると、冤罪事件が多発することになったり、男女平等だということを盾に、今度は男性が、女性に無理を強いることになるかも知れない。ただ、この場合は、パワハラ、セクハラなどのコンプライアンス違反との絡みになるだろう。それを考えると、
「コンプライアンスの問題が浮かび上がってきた背景には、男女平等に対しての弊害を言い訳にしようという意識もどこかに働いているのではないか?」
 という偏ってはいるが、そういう意見もあっていいのではないかと思うのだった。
 かなりの、
「個人の意見」
 ということになり、かなりのお叱りを受けるかも知れないが、あくまでも可能性としての話だということだ。
 そんな中、実際に、コンプライアンスや、男女平等という観点から、会社や自分のまわりの人間関係でも、
「下手なことは言えない」
 あるいは、
「どこまでだったら許されるんだ?」
 ということで、上司も、まるで部下を腫れ物に触るかのように接している。
 今までであれば、
「社交辞令」
 や、
「あいさつ程度」
 というものであったものが、
「課長、それセクハラです」
 と言われてしまうと、何も言えなくなってしまう。
 部下を慰めたり、鼓舞しようと思っても、何も言えなくなるのだ。
 本当であれば、
「報連相」
 が大切なことなんだ。
 と言われ、部署内でのコミュニケーションがうまく行っていないと、業務も回らないし、仕事が滞ってしまい、成果がまったく上がらなくなる。かと言って、
「セクハラ上司」
 のレッテルを貼られたくない。
 そうなってしまうと、サラリーマン人生も終わってしまうということだ。
 ということは、セクハラにも引っかからず、部下を鼓舞したり、相談に乗ってあげられるような、
「スーパー上司」
 でなければ、上司としてはいらないということなのか?
 そうなってしまうと、自分もリストラ候補となり、会社にいても、まるで針の筵の上に座らされてしまったようで、これほど辛いことはないというものだ。
 だからこそ、今の世の中は、
「個人至上主義」
 という人が増えてきた。
 家族も持たずに、自分ひとりで自給自足の生活をしていくという人だ。家族を持っているから、養わなければいけないということで、会社で何があっても、我慢しなければいけなかったり、そんな家族の長を、
「甲斐性なし」
 と奥さんから罵られたり、子供からは。
「キモイ」
 と言われて、家でも孤立無援になることを思えば、一人でいる方がいいと思うのも当然だろう。
 だから、最初から家族を持とうなどと思う人が、若者を中心に増えてくる。しかも、
「会社だって、国だって守ってくれない」
 と思うと、家族を持っていて、その責任に押しつぶされることを思えば、
「一人なら、何とでもなる」
 とも思う。
 昔であれば、
「血を途絶えさせてはいけない。ご先祖様に申し訳ない」
 と言って、必死に家系を守ろうとしてきたが、今の時代にそんな話はほとんど聞かない。
 昔からの同族会社などの家系であれば、それもありなのだろうが、そうでもないと、
「結婚して子供を持つのが幸せだ」
 と思っている人だって、何も血のつながりを意識している人などいないのではないだろうか?
 さらに、これは平成初期の、1990年代に起こった、
「バブルの崩壊」
 というのも、大きく影響しているのではないだろうか。
 あの頃までは、企業も、業務拡大すればするほど儲かっていたし、社員も、仕事をすればするほど、お金になった。そして、それこそが生きがいだっただろう。
「企業戦士」
 などということを言われ、残業も、会社に泊まり込んでの仕事もまったくいとわない状態だった。
 それこそが、サラリーマンの鏡だと言われていたのだ。
 しかし、時代はまったく変わってしまった。バブルが弾けてしまった瞬間、それまで神話のように言われていた、
「銀行が倒産することはない」
 という時代だったのに、それが、簡単に経営破綻するようになった。
 それまで言われたこともなかった、
「リストラ」
 という言葉で、人件費削減という名のもとに、社員を切っていく。
 しかも、一番会社に貢献してきたはずの、課長クラスや、業務拡大を目的として、雇ってきた、ここ数年の間の新入社員だった、一番の第一線の社員たちである。
 それはそうだろう。新規事業どことか、悲鳴を上げている部分を切除しないと、命が危ないのだ。手足を切ってでも生き残る覚悟がいる。言い方は悪いが、将棋でいうところの。
「王手飛車取り」
 を、目の前で見せられているようなものである。
 王様を取られてしまうと、ゲームは終わり、少しでも延命のために、飛車を犠牲にしなければいけないということなのだろう。
 そんな時代が、バブル崩壊と言われた時代だった。
 サラリーマンで、リストラに合わなかあった人は、大変である。会社では、
「残業は絶対にダメ」
 と言われているが、リストラのために、今まで3人でやっていたことを2人でしなければならないなどということになる。
 しかも、決められた時間内にである。
 家に持って帰って仕事をする人も多かっただろう。それはそれで大変であった。
 それでも、そのうちに慣れてきて、業務時間中にできるようになってくる。ただ、これは、仕事量が減ってきていることから、追いついてくるようになったというのも言えることであった。
 そうなると、今度は、いわゆる、
「アフターファイブ」
 というものが、非常に大切になってくる。
 給料は下げられているので、
「貧乏なくせに、時間だけはある」
 ということになる。
 それまでは、残業手当が、基本給よりも多いことで、金銭的に困らなかったどころか、使う時間がなかったので、お金はたまる一方だった。
 だが、あれだけ必死に働いていたのに、意外とお金はそんなに残っているわけではなかった。
 適当に遊んでいるうちに、あれだけ必死で働いて儲けたはずの金が、想像以上に湯水のようになってしまうことにビックリしてしまった。
 すると、お金の価値というものが、自分の中で次第になくなっていく。そうなると、仕事にだけ時間を使っているのが、バカバカしくなってくるというものだ。せっかくアフターファイブができたのだ。その時間を利用して、自分の好きなことをしたり、スキルをアップしようと考える人が増えてきた。
 習い事のようなものであったり、趣味であったり、スポーツクラブで身体を鍛えてみたりというものである。
 他には、コミュニティに参加して、仲間や恋人を作りたいと思う人もいるだろう。大きく分けると、コミュニティに参加して、仲間を増やしたいと考える人と、自分を中心に、スキルを高めたいと思う人の二つに分かれることだろう。
「個人至上主義」
作品名:耽美主義の挑戦 作家名:森本晃次