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耽美主義の挑戦

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 というようなものである。
「初潮を迎えたりするのは、女性独自のものであり、それは、妊娠することができるのは女性だけだ」
 ということからのことである。
 最近(といっても、20年くらい前)では、
「男女雇用均等法」
 などという法律ができたことで、過大解釈をする人のせいもあってか、必要以上に、
「男女平等」
 という言葉を、声高に叫んでいる人もいる。
 確かに、昔は、
「男尊女卑」
 などという言葉があり、女性には、あまりにも生きにくい時代が、歴史的にずっと継続してきた。
 特に戦前までの家庭などでは、それは顕著なことであった。
 さらに、現在の刑法では削除されることになったものとして、
「姦通罪」
 というものが、過去には存在した。
 この法律は日本に限らず、各国にあったのだが、今では見ることはなくなった法律である。
 これは、結婚している男女のどちらかが、他の異性と、
「姦通」
 した場合のことをいう。
 しかし、日本の場合は他の国の姦通罪とは違い、この法律が適用されるのは、
「結婚している女性が、配偶者以外の男性と姦通した場合」
 のみをいうのであった。
 これこそ、日本国憲法における。
「法の下の平等」
 の精神にそぐわないものとして、戦後、日本国憲法制定時に削除されたのだ。
 2000年近くまで姦通罪が存在していた韓国でも、
「女性のみ」
 という考えは存在しなかった。
 だが、日本において、日本国憲法が制定されてからも、まだまだ男女の差別は大きかった。2000年頃から、男女雇用均等という考えが浸透してきたのである。
 ただ、法律自体は、昭和末期に成立しているのだが、20世紀の間は、努力義務であったものが、禁止事項として法律が改正されたことで、一般市民にも、その杞憂が反映されるようになってきた。
 やはり、それまでのいろいろな女性であるがゆえの不平等さが、社会問題になることで一つになってきたからであろう。
 ストーカーなどという社会問題はその大きな問題ではなかったか。
 ただ、この問題は女性だけの問題ではなく、男性に対しての女性のストーカーというもおもあった。それを考えると、それだけが問題ではないだろう。
 だが、男女平等であったり、女性の被害を少なくしようという発想からなのかも知れないが、それまで女性に対しての犯罪で、泣き寝入りしていたことが、社会的にそれを許さないという兆候になってくると、逆の弊害が出てくることになる。
 痴漢や、盗撮などという問題、さらには、前述のストーカーなどという問題で、被害者が大いに声を挙げられるようになると、一歩間違えると、被害を受けた女性の勘違いなどから、
「冤罪事件」
 というものも、出てくるという、社会問題も無きにしもあらずであった。
 一人の女性が、電車の中で、
「この人痴漢です」
 といって、声を挙げるとどうなるであろうか?
 そばにいた連中は、まず、犯人扱いされた人間の言い訳など一切聞かずに、警察に突き出すことになるだろう。
 この場合の第三者は、まず自分がヒーローにでもなったかのように感じるだろうから、決して犯人を許さないという気持ちから、容疑者になった男を、完全に犯人だと決めてかかるに違いない。
 それは、
「自分は正義の味方なんだ」
 という自己陶酔に入ってしまい、一時期流行った、
「自粛警察」
 などというものと同じことになるのだ。
 自粛警察というのに対しては、かなり賛否両論があったが、痴漢事件にたまたま遭遇したことで、犯人を自分が捕まえたと自負する人間のことを悪く言う人はいない。
 しかも、そこには、
「集団意識」
 というものが働き、もし、これが冤罪であったとしても、
「言い出したのは、俺だけじゃない。だから、俺は悪くない」
 という思いから、かなり凶行に容疑者を犯人扱いできるのだ。
 犯人扱いされた方としても、数人から、
「こいつが犯人だ」
 と言われれば、いくら言い訳をしても、どうにもならないことが分かっている。
 そういう意味で、一番の問題は、このような、確証もないのに、女性が声を挙げたことで、犯人が確定したかのように考え、自分が正義の味方だという自己陶酔したいがために、その状況を利用する。
「善意という言葉を使う卑劣な第三者」
 というものが、ある意味、一番ひどい連中なのではないだろうか。
「もし、あいつらが火に油を注がなければ、まだ何とかなったかも知れない」
 と被害者が思えば、もし、彼はその後の人生を失ってしまうと、逆恨みから、いや、正当な恨みから、なくてもよかった殺人事件が起こる可能性だってあるのではないだろうか?
 容疑者にとって、どうにもならない状況の中では、もうどうしようもないのだ。警察に連行されて、頑なに否定するかしかないだろう。
「認めてしまうと人生が終わる」
 と考えるのは無理もないことで、冤罪であれば、特にその感情は強いだろう。
 それを分かったうえで、実は、被害者側が美人局だったりすることもある。
 その場で、
「この人痴漢です」
 と言わなかったとしても、後で、数人の怖いにいちゃんが出てきて、
「お前。この人を触っただろう」
 と言って脅しを掛け、それ以降、脅迫することで、その人の人生がメチャクチャになることだってある。
「証拠を警察に持って行ってもいいんだぞ。それともお前の会社に一斉メールでもするか?」
 と言われればどうにもならない。
 男女差別を盾に、こんな犯罪だって、陰で起こっている可能性は十分にあるというものではないか。
 それを考えると、男女平等というのがどういうものなのか分からなくなってきた。いや、男女平等というだけではなく、何事も偏りすぎると、ロクなことはないということになるのであろう。
 思春期になると、大人を意識し始め、男女を意識する中で、女性という者に対して、自分がいかなる思いがあるのかということを考えたりもするだろう。
 これも、一種の個人としての意見なのだろうが、長い歴史の中で、男女平等という考えになったというのは、本当にごく最近のことで、100年前などでは信じられない発想ではなかったか。
 つまりは、遺伝子というものが、過去からずっと受け継がれてきたものであるとするならば、遺伝子のほとんどは、歴史的に、ずっと、男尊女卑の感覚で来ていることになる。それを、いきなり、
「男女平等だ」
 と言われても、生理的に許せないことだってあるだろう。
 実際に無理なことだってある。男に、
「子供を生め」
 と言っても、肉体的に無理ではないか。
 しかも、身体の構造が女性は子供を生むようにできているわけで、男女で違うのは当たり前だ。だから、女性には、生理というものがあり、職業によっては、その期間、できない仕事だってあるはずだ。
 だから、それを無理に、
「男女平等」
 ということで。押し通して、
「生理期間中でも関係ないから、仕事に出てこい」
 と言えば、きっと、パワハラだとか、女性差別だというだろう。
 それは、男性から見れば、
「だったら、男女平等などというのは、最初から無理なことではないか?」
 といえるのではないか。
作品名:耽美主義の挑戦 作家名:森本晃次