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耽美主義の挑戦

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 これが本当の民主主義といえるのか?
 衆議院選挙において、与党が過半数に達すれば、与党がそのまま責任政党を引き継ぎ、政府となる。そして、その政府から、責任政党の議員と、政党に加盟している全国から選抜された人の投票によってソーリが選ばれるのだ。
 だから、
「自分に疑惑があれば、ソーリどころか、国会議員も辞める」
 などということを言っておいて、都合が悪くなると、一人に責任を押し付けて、自殺に追い込み、それを勝手に解決済みということで、責任逃れをし、さらに、最後に都合が悪くなると、
「病気になった」
 と言って、病院に逃げ込むことを、2回もやった、
「国家反逆罪に当たるような男」
 が、ソーリとしてのさばることになるのだ。
 しかも、自分が追求を受けた場合に助けてもらえる可能性の高い検察官が定年になるからと言って、保身のために、法律まで変えようとしたとんでもないソーリである。
 もっとも、この時の検事は、掛けマージャンをしたことで、自分から辞めなければならなかったという茶番付きであった。
 このソーリには、茶番がつきものだった。
 伝染病が世界的に流行った時、有名アーチストとコラボの動画をアップしたりしたが、それは無許可であり、国民のひんしゅくを買ったり、さらに、国民の税金を使って、マスク不足の時、使い道のないような意味のないマスクを国民に配って、自分の実績にしようとしたようだが、何とソーリ退任後、そのマスクが余ってしまって、今は保管料だけで、かなりの額がかかっているという、茶番のおまけつきだった。さらに、そのマスクは、自分の、
「お友達会社」
 にやらせて、いくらの
「中抜きをやったのか?」
 ということが、問題にもなっていた。
 何しろ、誰も聞いたことのない会社で、地元の人も名前も知らないような会社だったというではないか。当然のごとく、不良品の山だったことは言うまでもない。
 ここまで、日本の国は腐ってしまったのであろうか?
「亡国とどこに導こうとしたのか?」
 政治不信が募るのも当たり前といえるだろう。
 もっとも、このソーリは、宗教政党ではなかったということだけは、追記しておこう。

                 個人至上主義

 そんないろいろな主義がある中で、政治的なものを、歴史的に、基本的な時系列に沿って、近代終盤から、現代に掛けて、ほんの一部を列記してきた。
 実際には、このような単純なものではなく、もっと複雑に絡んでいたりするので、本当に書こうとすると、一冊の本が出来上がってしまうだろう。
 この話は、別にそういう政治評論の話でも、主義に対しての説明書でもない、いわゆる、
「プロローグ」
 と呼ばれる部分を、長々と書いてしまったわけで、それが作者のくせであるということなので、作者の作品に馴染んでおられる方は、
「またか」
 と思われたかも知れないが、本をたたむことなく読んでこられた方には感謝しかないというところである。
 しかも、事実ではあるが、その事実に対して作者の怒りや、思い入れを書いてしまったことで、不快な気分を与えてしまっていれば申し訳ない。あくまでも、
「個人の意見です」
 という言葉が、テレビ番組であれば、表示されているであろうとご了承願いたい。
 いろいろな主義は、政治的なものは、イデオロギーという、
「政治観念」
 というものと考えられるが、それ以外に、
「思想観念」
 というものがある。
 思想とは宗教としての考え方として、政治と絡んでくる部分もあるが、それ以外の考え方もたくさんあるだろう。
「別に、○○主義というものばかりを、主義とは言わないものだってあるのではないか?」
 とも考えられるのだった。
 そのうちの一つに、
「個性至上主義」
 というようなものがあるが、ただ、これが実際に使用されている言葉なのかどうかが難しいところだ。別に名前があるのかも知れないが、作者は、あえて、
「個性至上主義」
 と呼ぶことにしている。
 この、個性至上主義という考え方は、
「個性というものを、まず、最大級に広義に考えるもの」
 という前提がある。
 そして、それは、極端な話でいえば、変態的な意味であったり、下手をすれば、犯罪に絡むものもあるかも知れない。
 だが、それもすべて、その人の中にある、他の人にはないものということで、すべてひっくるめて、
「個性」
 と呼ぶのだ。
 そして、その個性は、他のすべてのものに優先するという、
「至上主義」
 という言葉が付くことになる。
 つまり、すべては、その人個人で終結することであるが、
「道徳、モラルなどを超えて、自分の中の個性と呼べるものが、何にも優先されるというものだ」
 ということになり、この発想は、えてして、
「わがままであり、自己中心的な考え方だ」
 といえるだろう。
 だから、そこには自己犠牲などと言う言葉は存在しない。もちろん、結果的に自己犠牲となる場合もあるが、それはあくまで結果であって、本人の個性がたまたま自己犠牲の形になって現れただけで、本人には、自己犠牲だという意識はないのではないか。
 しかし、だからといって、自己犠牲とまでは思わないとしても、個性を強引に完遂することは、えてして、何かを犠牲にするということは、織り込み済みなので、その中で自分の理性を正当化させようと思うことがあったとすれば、結果として自己犠牲になったのだとすれば、そこで、これも結果としてではあるが、正当性を持たせるために、自己犠牲の時に考えるような理屈を自分で思っているのかも知れない。あくまでも、本人は自己犠牲だとは思っていないのかも知れないがである。
 そんな、
「個性至上主義」
 というものを意識するようになるのは、どんなに早くても、思春期からであろう。
 それまでは、個性という意識はあっても、個性が自分にとって、どういう位置づけなのかということまでは分かるわけではないからだった。
 個性という言葉を、単純に、
「他の人にはないことで、自分は人とは違うというところがあれば、それが個性なんだ」
 ということで考えていただろう。
 だが、思春期になると、それまでにあまり強く感じてこなかった感情を、分かるようになってくる。生まれながらに持っているものなので、気づかなかっただけだというのが、本当のことなのかも知れない。
 成長するに従い、子供から大人になる時期というのが、れっきとして見えるのが、思春期である。精神的にも肉体的にも、ほぼ同時期に、子供から大人へと変貌するのだから、その人にとっては、人生の中でも、一番の大きな変革期ではないだろうか。
 ただ、これは転換期とは違い、人によって違うものではない。もちろん、時期的にはそれぞれ違っているが、思春期と呼ばれる時期は、ほぼ、3年間くらいの間のどこかに嵌るといってもいいだろう。
 それに、肉体的、精神的に微妙なずれのある人は余計に思春期というものを意識することになるだろう。これは、生きている人間には、男女問わず、
「通らなければいけない道だ」
 といえるだろう。
 形として、ハッキリと分かるものでは、
「乳歯が抜け落ちて、その後から、永久歯が生えてくる」
作品名:耽美主義の挑戦 作家名:森本晃次