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耽美主義の挑戦

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「38度線を境に、北は社会主義国、南は民主主義国として、それぞれ、ソ連をアメリカが介入する国家に分裂し、そこで、北が、朝鮮半島統一をもくろんで、戦争を仕掛けてきた。これが、朝鮮戦争である」
 というものだった。
 その後、アメリカの暗部の中央アメリカにおいて、
「キューバによる社会主義革命」
 が起こったことで、アメリカとソ連が一触即発の、
「キューバ危機」
 が起こり、その事件が、
「全面核戦争の脅威」
 が現実となったのだ。
 sもそも、
「核は持っているだけで、相手に手を出させることのできない抑止力になる」
 というものであった。
 つまり、偶発的な事件から、核のボタンを押すということになり、核爆弾の応酬となり、世界は、放射能に汚染され、人が住めるところがなくなるのではないかという恐怖であった。
 そこから、アメリカとソ連とで、直接対決はありえなくなった。朝鮮戦争でもそうであったが、その後に起こったベトナム戦争でも、結果的にそれぞれの体制の大国は裏にいて、
アメリカとソ連の、
「代理戦争」
 ということになるのだった。
 ベトナム戦争は反戦ムードのせいで、アメリカが撤退することになり、起こされた南ベトナムが、攻め込まれるという、アメリカが見捨てたという状態になった。アメリカという国はいつも同じことを繰り返す。中国内線しかり、アフガニスタン問題しかり、イラク戦争しかり、
 つまりは、アメリカの勝手な正義の下で、いいように扱われた国が見擦れられて、崩壊することになるというのを、何度繰り返せばいいのだろう?
 これが、
「世界の警察」
 というものを名乗る国家だといえるのだろうか?
 世界が、
「冷戦」
 と言われていたそんな時代であった。
 そんな時代における主義もいろいろ変わってきた。現在では、ソ連の崩壊とともに、あれだけあった社会主義国は、数か国に減ってしまった。
 当然、冷戦というものはなくなったが、それに代わるものとして、組織が国家に対抗するという、テロ組織が台頭してくることになる。
 ゲリラ戦を仕掛けてきたり、自爆テロなどと、以前からの過激派や、パルチザンのようなものが暗躍する時代である、そういう意味で、昔から今も脈々と続いているもので、
「宗教主義」
 とでもいうのか、
「信仰至上主義」
 とでも言えばいいのか、戦争や紛争の原因となるものは、古来から宗教がつきものであったりするではないか。
 信仰や、崇拝するものに対しては命も惜しまない。命を犠牲にしてでも、守り通すという考えだ。
 死んだ後のことを神様は保証してくれるとでもいうのだろうか?
 キリスト教などの代表的な宗教には戒律というものがあり、そこに明記されている、
「人を殺めてはいけない」
 という言葉は、一体どういうことなのだろう。
 キリシタンで有名な、細川ガラシャ(たま)は、夫である忠興のために、石田三成から人質にされることを嫌って、自らの命を絶ったという。しかし、キリシタンは、
「自殺は許されない」
 ということで、配下のものに、自分を殺させることで、目的を達成した。
 しかし、これはどうなのだろう?
 自らの手で人を、あるいは自分を殺さなければそれでいいというのか? 配下の人間に自分を殺させるというのは、人を巻き込むということである。
 配下の者が、キリシタンではないので、自分を殺させてもいいということなのだろうか?
 もしそうであるとするならば、発想が貧困な気がする。あくまでも、解釈によるものであり、教えに対して、考えが甘いといえるのではないだろうか?
 そもそも、なぜ自殺がいけないと言っているのか分かってのことなのだろうか? 人を殺すのも、自分を殺すのも、人に銘じて、誰かを殺させるのも、人の命を奪うという意味で、どこに隔たりがあるというのか、考えさせられてしまうではないか。
 古来からの戦争の歴史において、宗教がらみがどれほどあることか。
 それを考えると、虚しさというか、諸行無常を感じさせる。盛者必衰であり、物事には限りがある。
 では、宗教における、
「あの世。神の国」
 というのは、限りのない世界なのだろうか?
 考えれば考えるほど、答えは出てこない。宗教ほど、死後の世界に救いを求めるものもなく、そのくせ、死というものを恐れていないと言いながら、真剣に向き合っているように見える。
 それなのに、どうして、死後の世界においてを代償に、自爆テロであったり、テロ行為を繰り返させるのだろうか? 自己犠牲が、美しいとでも言っているかのようで、誰かのために、犠牲になることをいとわない。そして、その誰かというのは、神ではなく、同じ人間なのだ。
 テロで死んだ人間は、いくら聖戦を戦っているとはいえ、侵略に対しての自己防衛以外のことだってある。下手をすれば、自分たちを助けようと思っている人まで、殺してしまっているかも知れない。
 今の宗教団体を見ていると、教祖が独裁のために、信者の心を利用して、自分に神と同等の力があるわけでもないのに、あたかもあるかのように欺いて、自分の私利私欲のために利用しようとしている極悪で、変態な、教祖を名乗る人が宗教団体の数だけいるということである。
 教祖になった人が、まわりから祀り上げられ、力もないのに、表に出されている傀儡の教祖だっていることだろう。
「団体の数だけ教祖がいて、神同等の力があるのであれば、それこそ、この世に戦争も紛争もない理想郷が出来上がるはずだ」
 それはできないのではなく、しないのだ。
「薬の開発に携わる人が、決して不老不死の薬を作ることをしないのは、そんなものができてしまうと、商売にならないからだ」
 と言っているのと同じことである。
 世の中には、実際に登録されている宗教団体であったり、非公式なものを含めると
どれだけあるのだろうか?
 そもそも考えてみれば、憲法で、政教分離の原則があることで、
「信仰の自由」
 が許されているのである。
 しかし、今の日本はどうであろう?
 政府与党の政党の母体が、宗教団体ではないか? ということである。
 この議論は、日本国憲法ができた時からあった。
 憲法では、
「いかなる宗教も政治利用してはならない」
 とされているのに、どうしてこんなことが許されるのか、ありえないことに思える。
 そもそも、国家が国教というものを持っていて、その国境に基づく政治結社があるのとは、訳が違うのである。
 つまりは、
「憲法違反」
 なのである。
 つまりは、日本が軍隊を持つのと同レベルの発想であり、その軍隊が、専守防衛ではなく、侵略戦争を起こすのを許すようなものだ。
 それなのに、なぜ、母体が宗教団体の政党が存在し、さらには、それが与党だというのだ。
 元々は野党だったものが、その宗教団体の票がほしいというだけの理由で、過半数突破のために、手を結んだというだけの、薄氷のような結びつきで、元々の与党が強ければ、こんな宗教政党など、鼻息で吹き飛ばされるレベルである。
 そういう意味で、
「日本というのは、何と訳が分からない国なんだ」
 ということになる。
 しかも、国家元首を選ぶのが、直接選挙ではないというのはどういうことなのか?
作品名:耽美主義の挑戦 作家名:森本晃次