耽美主義の挑戦
「このマンションに引っ越してきた時、ちょうど結婚してから部屋を探したという感じなんでしょうか?」
と聞かれると、
「ええ、そうです。その件に関しては、奥さんから直接聞いたので間違いないと思いますよ。旦那が一生懸命に探してきたって、自慢げに話をしていましたね」
というと、もう一人の奥さんが、
「へえ、あの奥さんがそんな殊勝なことを言っていたんですね。私は離婚寸前くらいからしか知らないので、まさかあの奥さんにそんな時代があっただなんて、信じられないわ。ということは裏を返せば、どんなに仲がいい夫婦だって、一歩間違えれば、離婚ということになるということなんでしょうね?」
というと、
「それはそうよ。離婚というのは、前の日までは、自分の唯一の味方だと思っていた人が、たった一日で、話しかけるだけでも怖い存在になってしまうのが、男と女というものなのよね。だから、そのことを感じた時、離婚が頭をよぎるんだと私は思うわ」
と、ベテランの奥さんが、しみじみと語った。
「すごいですね。奥さんは、離婚経験がないのに、よくその心境がお分かりになられますね」
ともう一人の奥さんがいうと、
「私のところは、いつもが離婚の危機なのよ。でも、いつもギリギリのところで離婚を回避する、おかしな夫婦でしょう?」
「でも、今、そういう夫婦多いみたいですよ。自分のところだけかと思っていたら、皆同じだったというような話を結構聞きますからね」
と、3人はそれぞれ目の前に刑事がいるのを分かっていて、敢えて話しているようだった。
深沢刑事も敢えて、井戸端会議を邪魔するつもりはない。むしろ、奥さん同士のこういう会話の中から、真実が聞かれるのではないかと思い、笑顔を浮かべながら、話をしっかりと聞いていたのだ。
奥さんたちの話は、それなりに的を得ているような気がした。実際に聞きたいことにまでは辿り着いているような気はしないが、
「どこかでニアミスが発生すれば、そこから、派生するものが絶対に出てくるはずだ」
と思っている。
「1足す1は2」
だという答えが本当なのか、本当は本当であるだろうが、他に答えがあるのではないか?
という思いに至るのであった。
「ところで、舞鶴さんというのは、どういう人だったんですか?」
と、話が佳境を通り超えた頃、思い出したように、深沢刑事は聞いた。
「ああ、そうね。あの人はとにかく、まわりに関わることのない人だったかな? でもね、一人で部屋にいる時、勧誘とかの営業が呼び鈴を鳴らしたりするでしょう? そうすると、ここまでしなくても、というほどに、怒り狂って叫んでいるのを、何度か聞いたことがあるわ。あれは、きっとたまった鬱憤やストレスを、一気にはじき出すとしているのではないかと思うのよ」
と、ベテランの奥さんが言った。
「それは分かる気がするわ。でも、私はそういう人って、よほど若いか、年配の人にあるんじゃないかって思っていたんだけど、まだ、中年にも差し掛かっていない舞鶴さんに、そんなところがあるというのは、少し意外だったわ。それも、家族があって、家族の不満をぶつけているなら分かるんだけど、家族もなくていつも一人のあの人が、何に対して鬱憤があるのかしらって、不思議に思っていたのよね」
と、一番若い奥さんが言った。
「なるほど、奥さんたちがたぶん、感じていることは、それぞれに説得力があるような気がしますね。我々も今の話を考慮に入れて、捜査してみることにします。もし、また何かを思い出したりしたら、K警察の、深沢といいますので、こちらにご連絡ください」
と言って、深沢刑事は、井戸端会議を早々に切り上げた。
井戸端会議というのは、両極端で、開放的なグループは、最初にすべてを明かしてくれるので、ある程度まで聞けば、もう後はいいのだ。今回がそうであった。しかし、逆になかなか本題を切り出さないグループは、どうでもいいような話に終始して、最後のどさくさに紛れて本音をいうようだ。
それがわざとなのか、習性のようなものなのか分からないが、今までの経験がそうであった。
それを思えば、今回の聞き込みは楽な方だったといえるだろう。
奥さんたちに礼を言って、深沢刑事は、その場を後にしたのだった。
個性至上主義と耽美主義
深沢刑事が捜査本部に戻ると、そこで鑑識からの報告が上がってきていた。司法解剖も済んで、その報告も入っていたのだ。
死因は、胸部をナイフで刺された時の、ショック死だという。出血多量ではあったが、ナイフが刺さったままだったことで、即死だったわけではなく、しばらくは生きていたかも知れないという見解だった。
「むごいことをする」
と正直思った。
このむごさは、返り血を浴びたくないという思いが、即死しなかったことに繋がっただけなのか、犯人も即死しないことを知っていて、少しでも苦しめてやろうという思いがあったということで、もし、動機が怨恨によるものであれば、その考え方も、無理のないものに違いないと思えるのだった。
そして、死亡推定時刻だが、発見された時点で、6時間くらい経っていたのではないかということで、午後10時前後、つまり、9時から11時の間くらいではなかったかというのが、初見であったが、ほぼそれと違わない結果が司法解剖からも得られたのだ。
さらに、被害者の胃の内容物の消化具合から、食後、3時間くらいだろうということで、夕食は、7時から8時くらいだったのではないかと推測される。別におかしな時間でもなんでもない普通の時間だったのだ。
内容物には、魚介類に脂っこさがあるということから、
「天ぷらのような日本料理ではないか?」
ということであった。
その裏付けを別の刑事が取りに行っているようで、それもすぐに判明することだろう。
だが、今回の解剖の結果、少し不思議なことがあるようだった。
というのは、食事の後に、どうも被害者は、睡眠薬のようなものを服用しているのではないかということであった。
だが、睡眠薬と言っても、そんなに強いものではない。即効性のあるものではなく、検出されたのは、微量だったという。
「これくらいなら、風邪薬などにも入っているくらいの微量なんだけど、風邪薬を飲んだという形跡はないんですよ。微妙な量の睡眠薬の成分ということだけが分かっているので、ひょっとすると、食事の中に入っていた可能性も無きにしも非ずというところであった。
「じゃあ、この睡眠薬が効いている間に、被害者は殺されたということになるんですか?」
と聞かれた鑑識の人は、
「そうかも知れないけど、何しろ微量なもので、死体の発見がもう少し遅れていると、睡眠薬の成分を見逃していた可能性は非常に高いですね」
というではないか。
深沢刑事は、
「じゃあ、あの時間に死体が発見されなければいけない理由があったということですね?」
と聞くと、
「そういうことになりますね」