耽美主義の挑戦
「死因は、見ての通りの刺殺ですね。数か所刺されているようですが、致命傷は、最後に突き刺さっているこの傷ではないでしょうか? ナイフが刺さったままなので、それほど目立ちませんが、引き抜いたりすると、かなりの返り血を浴びることになると思いますね」
と鑑識は言った。
「ということは、ナイフを刺したままだというのは、返り血を浴びたくないから?」
「そうですね。数か所刺したのは、それが致命傷になっていないことが分かったからでしょう。点々と血の痕がついていますが、それは致命傷までに刺された傷から出たものでしょう。つまり、致命傷を負わせることが最初からできなかったことで、結果的に何か所かあを刺してしまうということになったんでしょう」
と鑑識がいうと、
「ということは、犯人の怒りが、数か所の傷になっているというよりも、犯人が殺害の素人だということで、結果的に数か所に傷が残ったということですか?」
と刑事が聞くと、
「その可能性の方が高いと思います」
「なるほど、この事件の犯人は、ある意味、素人なのか、それとも、殺害は決意したが、実際に殺そうとすると、戸惑ってしまうというのか、根性なしの犯人だということも言えるかも知れないということですね?」
と刑事がいうと、
「あくまでも、現場の状況を見た上での可能性からですね」
というのだった。
それを聞いた刑事は、今度は、被害者から離れて、別のところを物色し始めた。鑑識の話を聞く限り、間違いなく、これは殺人事件ということになるだろう。刑事はそう信じて疑う余地はなさそうだ。
配達員を覗き込んでいた刑事は、
「灰谷さんは、いつもこのマンションを配達しているんですか?」
「ええ、そうです。でも、いつもこの時間なので、マンションの人と顔を合わすことはないです。他のマンションや一軒家も一緒で、それは、新聞配達員は、ほとんど一緒なのではないでしょうか?」
という。
「それはそうでしょうね? でも、どうしてあなたは、この部屋で死体を発見することになったんですか?」
と聞かれたので、表の扉が新聞を投函した瞬間に、フッと重たい扉が自然に開いたこと、そして開き終わってから中を見ると、窓も開いていたということ、
「こんな寒い時間に、扉も窓も開いているなんて、どう考えてもおかしいじゃないですか? 大丈夫ですか? と声をかけてみたんですが、中から返事がなかった。だから、中に入ってみたんです。案の定、窓は開いていて、真っ暗な部屋のそこのソファーに、ナイフで刺された人が座っているじゃないですか。これほど恐ろしいものはなく、とにかく急いで110番したわけです。警察の人に早く来てほしいと思う一心でしたね」
というと、
「その間、他の部屋からの反応は?」
「皆さん。寝静まって言うようで、誰も反応がありません。だって、警察が来られている今でも、誰もこの部屋を覗こうとするような人はいないでしょう?」
と言われて、刑事は時計を見た。
時間とすれば、4時半くらいである。本当に早起きの人でも、まだ起きてくる時間ではない。一軒家で、年配の人がいれば、早起きの人もいるだろうが、マンションの構造から考えて、一人暮らしか新婚さんくらいの若い人しか住んでいないようなマンションなので、早起きの人がいないとしても、無理もないことであろう。
しかも、マンションというと、特に隣人のことに誰も関わろうとしない。パトカーや救急車のサイレンの音が鳴っても、わざわざ意識して出てくることもないだろうと、刑事は思っているようだった。
「ということは、このマンションの人のことは、あなたに聞いても分かるわけではないということですね?」
と刑事がいうと、
「ええ、そうだと思っていただいていいと思います」
と言った瞬間、灰谷配達員は、
「そっか、ひょっとして犯人が窓を開けたり扉を開けたりしていたのは、第一発見者を、配達員であるこの俺にしたかったということかも知れないな」
と感じた。
犯人は、自分のことやマンションのことを知らない、あくまでも第三者に発見させたかった。そこにどんな理由があるのか分からないが、作為的なものを感じた。
その答えを与えてくれたのは、実は刑事だったのだが、
「灰谷さんは、いつも同じ時間にここに配達に来るんですか?」
と聞かれ、
「ええ、よほど、出発に戸惑いでもない限り、いつも配達コースは決まっているので、たぶん、前後10分くらいの誤差しかないと思っています」
と言って、刑事が何を考えているのかを探っていると、
「ということは、ここの窓や扉を開けていたのは、配達員であるあなたに発見させたかったんでしょうね」
というではないか。
「どういうことですか?」
と、灰谷がいうと、
「それはね、なるべく早く死体を発見させたかったからなのかと思っただけど、それだけではなくて、どんな理由があるのか分からないけど、発見させる時間を特定させたかったんじゃないかな? 他の人だったら、ここまで正確に、犯人が考える時間に死体が発見されるということはないはずだからね」
というのだった。
それを聞いた鑑識は、
「そうかも知れないですね。我々もそのつもりで捜査しましょう」
と、後ろから声を掛けた。
殺人事件だから、当然、司法解剖に回されることだろう。
灰谷はただの、
「死体の第一発見者」
というだけのことなので、それ以上首を突っ込むことができないが、さっきの、
「第一発見者を自分にしたことに、犯人の意図がある」
と刑事が言ったことで、それが、
「第一発見者を疑え」
という、推理小説の鉄則のような話にはなっていないということを言っているようで、灰谷は安心していた。
刑事がそのことを暗に示しているのを無意識なのか、それとも、わざとなのかは分からなかったが、少なくとも、ホットした気分になった灰谷だった。
「それにしても、へんてこな事件だ」
と、テレビの2時間サスペンスなどが好きでよく見ていた灰谷だったが、このような展開は、まるでドラマのようで興味があったが、このように、わざと死体を発見させる相手を決めるというような話は、あまりないような気がした。
逆に、本などの、推理小説の方が多いのではないかと思ったが、いろいろ考えてみると、犯人にとって、第一発見者を決めておくための何かの思惑があるとすれば、
「アリバイトリックのようなものではないかな?」
と、灰谷は考えていたのだった。
第一発見者という立場を忘れて、すっかり探偵気分になっている灰谷だったが、自分が事件にまた関わることになるのかどうか、考えただけで。ドキドキしてくるのだった。
灰谷が発見したことで、自分の中で、
「何か、犯人にしてやられた気がして、癪に障るな」
と思っていた。
こんなことなら、自分が犯人逮捕に少しは協力してやるというくらいにすら、感じているほどだった。
しかし素人が探偵ごっこのようなことをしても、却って警察の足を引っ張ることになるし、何よりも自分が危険である。癪に障った気持ちを抑えて、冷静になることが必要だった。