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小田原評定

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「実際には、反対の予言をするという、こんな事実など、夢をぶっ潰すかのような内容なので、描けるわけはない」
 もっともそんな事実を知っているのは自分だけなので、出てくる発想は、もっと夢のあるものなのだろう。
 すると、映像が後半に入ってきて、迷い込んでしまった鎮守の森から抜けられなくなったところで、少年が頭を絞って、どこなら抜けられるかということを、見つけ出すことができた。
 その時から、彼の中の予言はピタリと当たるようになった。
 これを彼は、
「今まで、少し狂っていた発想をちょっと修正することで、正常になる」
 という、秘訣のようなものを手に入れたのだ。
 まるで、RPGゲームにおける、秘密のアイテムを手に入れたかのようではないか。
 そして、その後に予言した内容はすべてが、ピタリと嵌った。それ以降少年は、天才少年として、世間からもてはやされ、いろいろなところで引っ張りだこだった。
 というそんな内容だった。
 荻谷少年とすれば、少し気になるところもあったが、途中だけを、オカルトっぽくしたわけではなく、そもそも全体的に、田舎町のようなところが舞台だったりすることで、全体を暈しながら、視聴者にアピールできるところが悪くはないと思ったので、番組放送を了承することにした。
 荻谷が気になったのは、最後のところだった。
 最後を暈す形にしたのは、問題ないのだが、最初の設定が、
「身体の弱い少年」
 ということだったはずなのに、最後には、引っ張りだこになっているのに、別に問題なく動けているのが、矛盾しているように思えた。
 だからこそ、田舎町も別荘地にいるわけだし、違和感があるのは、当たり前だった。
 だが、逆にいえば、鎮守の森に迷い込んで、彼の奇才が抜け道を見つけたその時に、肉体的にも強くなれる力も一緒に手に入れたのではないかという発想もできることで、
「ドラマとして製作したのだから、そのつもりで見ていればいいだけなので、気は楽だ」
 と思うのだった。
 そこで、番組に注文として、最初でも最後でもいいので、
「この番組はフィクションです」
 という内容のテロップを出すことを条件とすることで、話を付けたのだった。
「分かりました。じゃあ、最後に出すことにしましょう」
 と、プロデューサは言った。
「最後の方が、見たあとで、印象が残りますからね」
 と、彼は言ったが、実際には、別の含みがあった。
 プロデューサーとしては、なるべく、フィクションだということを視聴者に思わせたくないという感情があった。
 もし、そう思わせてしまうと、せっかくのドラマが色褪せる感じがしたのだ。なんと言っても、これは、
「番組内ドラマ」
 なので、時間というのは、番組構成で決められる。番組全体の総括プロデューサの思惑もあって、時間は、普通のドラマと違って、中途半端なのだ。
 実際のドラマは、その時間に合わせた作り方がある。このプロデューサーも分かっているので、30分、1時間番組を作るのは得意なのだが、番組内ドラマのような中途半端な時間で、感動を与えるのは難しかった。しかし、プライドがあるので、ドラマを楽しくしたいという気持ちが誰よりも持っていて、そのため、視聴者にフィクションだとは思わせたくなかったのだ。そういう意味で、最初に持ってくるよりも、最後は、ある意味印象が薄い。なぜなら、その後も番組は続くからだった。
 荻谷少年はそんな思惑を知る由もなく、違和感を残しながら、番組ができるのを楽しみにしていた。
 そして、出来上がった番組が、実際の番組として、オンエアされる日がやってきたのだった。
 荻谷少年は、最終的なドキュメンタリードラマの出来栄えまでは見ていない。あくまでも、
「番組内ドラマ」
 の内容を見ただけなので、それがどのような出来栄えになっているかということを分かっているわけではなかった。
 これは、番組内ドラマおプロデューサーの意向もあったからで、そこにまさか、彼の思惑が隠されているなどということは、夢にも思っていなかったのだ。
 だが、許可した以上は、どんな内容の番組ができていようと、許可した人間の責任だということくらいは、中学生になっていた荻谷少年にも分かっていた。
 だからこそプロデューサーが、わざわざ許可を取るのに、いろいろ確認してきたのではなかったか。番組を製作する方としても、
「礼儀、仁義」
 はしっかりと果たしているのだから、もう、文句を言える立場にはないことを分からなければいけないのだった。
 実際のオンエアを見ていると、覚悟していたほど、きになるところはなかった。むしろ、しっかりと気を遣うべきところは使ってくれていて、許可した方も、ホット一安心というところであった。
 むしろ、ドキュメンタリーなどの架空のインタビューの危ういところを、ドラマがカバーしてくれているような構成になっているところがありがたかった。
 だが、これはあくまでも、ドラマに最初から重点を置いた形で見ていた荻谷少年の、いわゆる、
「偏った目」
 で、見てしまったことが、言葉通り、偏見となって見ていることで、せっかくの、番組内のバランスを、ドラマ重視で見ていることで、今度は、ドラマを擁護する形で見てしまい、逆にインタビューの部分が、怖く感じられるようになったのだ。
 そもそも、インタビューシーンを見るのは初めてだ。
 他の人で、インタビューに答えられるような人がいないのも事実なので、最初から、架空にするしかなかったわけで、その時点で、このドキュメンタリーが、最初から盛られていて、誇張されていることは分かっていた。
 ドラマをさらに誇張したものにすると、歯止めが利かないという思いが荻谷少年にあったことで、不安が募っていたのだろう。
 それを、ごラマ製作の方で、内容をオカルトチックにしてくれたのは、荻谷少年とすれば、よかったと思う。
「これ以上の誇張はいらない」
 と思っているところに、オカルトチックな内容にすることで、半分は架空になることで、インタビューの架空さを覆い隠してくれているようで、見ていて安心感を与えられる。
 そのため。荻谷少年は、
「この話は、俺の話ではない。俺の中から羽ばたいていった別の主人公が、自分の手を離れて、擬人化されたかのような話にしてくれたおかげで、他人事のように見れた」
 というのが大きかった。
 だが、この物語は自分のことだというのを、他の人には知られることはないが、自分だけで納得できる形だった。
 そこは、番組側が、放送倫理に則って製作してくれたのだと考えると、
「番組作りというのは、大変だけど、何か興味があるな」
 と感じるようになった。
「いずれ、俺も将来になったら、こういう番組制作なんかに携われる仕事につけたらいいよな」
 という思いを抱くようになった。
 しかし、自分が人とは違うということを、一番の特徴だと思っている荻谷少年は、
「人と一緒に作っていくということが果たしてできるだろうか?」
 と考えていた。
 協調性ということだけではなく、自分の主張を表に出さなければいけない番組で、人との協調性という、微妙な線引きを、自分が納得してできるのかどうかが疑問だった。
「妥協と納得」
作品名:小田原評定 作家名:森本晃次