小田原評定
あれだけ、カーチス・ルメイによる、日本本土の都市への、無差別爆撃で、ほとんどの都市が廃墟と化していたのに、二十年も経たないうちに、ほぼ、復興が成っていたのである。これが、アジアにおける。復興や経済成長などでの、
「奇跡」
と呼ばれた最初だったのだろう。
話が大きく逸れてしまったが、そんな、
「繰り返される時代」
の中で、1990年代というのも、エレクトロニクスにおいての革命の時代といってもいいだろう。
ちょうど、その頃の日本というと、経済的には、
「バブルの崩壊」
という事態を迎えていた。
それまでは、
「事業を拡大すればするほど、儲かる」
と言われていた時代であり、銀行も、
「過剰融資」
と言われるくらいに、投資を行い、その利子において、さらなる利益を拡大させようとしていた。
しかし、バブルという言葉の通りの、
「実体のない泡」
である。
少なくとも、経済がうまく噛み合っていたことで発展したバブル経済であったが、一つ歯車が狂えば、何と言っても実態がないのだから、すべてが狂ってしまう。
それまで、
「銀行は絶対に潰れない」
といわれた、神話が、簡単に崩れた。
銀行の財政破綻によって、経済を助けるはずの銀行がうまく経営できない状態に陥ると、会社が破綻していく際に、銀行による援助がなければ、成り立たないのに、その銀行が自分たちの融資したお金の回収がほぼ難しくなった時点で、追加融資などとんでもないことになるのだ。自分たちの足元に火がついているのに、資金援助どころではない。
そもそも、企業が事業拡大をして、収拾がつかなくなってしまったことで、銀行の資金繰りまでうまく行かなくなり、足元を気にしなくてはいけなくなったのかを考えてみろと言いたいのだろう。
それが、バブルの崩壊であり、その時にまことしやかに叫ばれ出した言葉が、
「リストラ」
だったのだ。
それまでは聞いたこともない言葉で、企業再生のための、人員整理などという意味で一般的に使われるようになった。簡単に言えば、社員を大量にクビにすることで、何とか人件費を抑えようという考え方である。
会社において収入の道が閉ざされれば、支出を何とか抑えるしかないというのは、当たり前のことだ。
そのためには、一番経費を食っている部分として、人件費が大きいだろう。特にバブルの時代には、どんどん事業拡大するために、人員をたくさん入れてきた。その中には、企業縮小により、閉鎖された事業所などで、大量の失業者が出るわけだが、そういうのも、リストラなのである。
「肩叩き」
などという言葉があったり、退職金を弾むから、自主退社を募るという、
「依願退職者募集」
などというのが、横行したりした。
それが、バブル経済がもろ刃の剣だったということを示すことでもあり、
「どうして、誰もこんなことになるということに気づかなかったのか?」
あるいは、
「気づいていた人もいたであろうが、それを口にできない世相があった」
というのも事実だろう。
もし、そんなことを言ってしまうと、今うまく行っているところに、不必要な不安に巻き込むことになり、もし、バブルが弾けなければ、自分が悪者になってしまい、
「世間を騒がせたほら吹き野郎」
ということになってしまうのではないだろうか?
そんな懸念がある中で、それは、昔から言われている寓話の中のお話に、似たような話があるではないか、それが、
「オオカミ少年」
という話なのではないか?
そんなオオカミ少年のような話を、あるテレビ局が、ある時、ドキュメンタリーとして放送したことがあった。その番組は、少し偏ったところもあったので、世論の発想を考慮に入れて、編集を、どちらかというと、
「バラエティ色」
を強めた番組にしていたようだ。
再現VTRに出演していた俳優を、わざとコメディアンや、芸人を使ってみたりして、世論の反感を買わないように気を遣いながら、製作していたのであった。
ただ、時代は今のように、個人情報や、コンプライアンスなどが、まだまだ確立されていない時代であり、騒がれ始めてはいたが、個人情報などに関しては、まだまだ、後退した状態だったといってもいいだろう。
それでも、プライバシー保護の観点から、本人を出演させることをしなかったあたりは、さすがに放送倫理というものに、充実であったということだろうと理解できる。
この時代には、バラエティなどで、
「やりすぎ」
と非難される番組も少なくなく、
「批判はされるが、それでも、視聴率は高いというジレンマの中で、敢えて、番組を強行する」
という発想は、実際にあり得ることなのだろう。
この番組は、オオカミ少年というものをたとえとして作り上げたもので、元々、少年には、自分で、
「予知能力が自分にはある」
といって、いろいろなことを予言していたが、そのうちに、それが、
すべてウソだった」
ということになり、それが地域で有名になり、その少年のことを、いつしか、イソップ寓話の話の中にある
「ウソをつく子供」
という話から由来して、通称、その子供のことを、
「オオカミ少年」
と呼ぶようになったのだということである。
この話は、
「ウソをつき続けることで、物事の真実を見抜く力が低下することで、人のいうことを誰も信じなくなる」
ということへの警鐘だともいえるだろう。
「軽々しくウソをつき、それに味を占めて、繰り返していくことで、最後には自分に跳ね返ってくる」
という解釈もできる。
しかし、最後には、ウソをついた少年も、信用しなくなった村人も、全員が被害に遭ってしまったということで、
いくら、どんなに欺かれたとしても、
「またこれはウソなのだ」
といってすべてを信用しないということは浅はかなことで、最初から人のいうことを信用するのではなく、自分でも疑ってみるというくらいの、用心深さを持つ必要があるのだということへの教訓にも見える。
製作されたドキュメンタリーとしては、子供の頃からウソばかりついている、いわゆる、
「オオカミ少年」
と呼ばれる子供に対しての話であり、まわりの人はあくまでもわき役である。
オオカミ少年はそれまで予言したことがすべてウソであったにも関わらず、ある瞬間から、彼が言ったことが、すべて当たってしまうという、奇跡的な転換が待ち構えていた。それをドキュメンタリーとしたものだが、実際には、少年が頭を切り替えただけだった。
「自分が感じたことがことごとく反対になったのであれば、逆に考えていることの反対のことを口にすれば、すべてが当たることになるのではないか?」
という発想である。
これは理屈上はその通りであり、普通に実践すればいいのだろうが、少年としては、今まですべてが外れてきたので、もう、予言するのが怖くなった。つまりは、
「これ以上何も言わない方が無難であり、冒険をする意義が自分にはない」
という考えを自ら覆る、実に勇気のいることであった。
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