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小田原評定

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 のように、最初から女というものがいたわけではなく。しかも、災いの元として、女を人間界にもたらすことになった。
 というところが、ギリシャ神話の他にはない特徴でもあったのだ。
 つまり、神話の世界は別にして、火だって、最初に起こした人がいて、その衝撃的な発見を、神話のごとく描いたり、神として崇めたりしているのだ。それだけ、衝撃的なことであるほど、最初に発見したり、使ったりした人は、パイオニアとして、崇められることになるのだ。
 パソコンにしても、最初に電子計算機として、コンピューターの元祖を築いた人がいるからこそ、今があるのだ。そのことを、ついつい忘れがちだが、そのことを再認識させるのが、
「歴史」
 という学問なのではないだろうか。
「歴史を学ぶということは、先駆者に学ぶということなのかも知れない。何もないところから新しいものを開発するというのは、人間の発想が豊かでないとできることではない」
 と言われるが、人間には、「発想:とは別に、「思想」というものがある。
「発想を学ぶものが歴史であるならば、思想を学ぶのが哲学というものである」
 といえるのではないか。
 思想というと、宗教というものが頭に浮かんできて、宗教というと、新興宗教であったり、過去の歴史から、
「戦争の原因となったものに、宗教がらみが結構ある」
 という発想から、なかなか敬遠されがちなものである。
 新興宗教というと、どうしても、家族を引き離したり、陰で何かの企みが渦巻いていたりと、ロクなものではない。クーデターを起こし、国家転覆を狙った宗教団体だってあったではないか。しかも、過去の戦争を考えてみると、十字軍のように、キリスト教とイスラム教の戦いであったり、民族戦争と呼ばれるものの背後に、宗教が絡んでいたりする。
 そういう意味で、過去の日本で、封建制度の中世の時代。大航海時代において、キリスト教の布教を、弾圧した秀吉や、徳川幕府など、その政策は間違っていなかったといえるだろう。
 何しろ、スペインやポルトガルなどのやり口は、
「宣教師を先に送り込んでおいて、キリスト教の信者を増やし、そこで政府ともめた際に、そのどさくさに紛れて軍隊を送り込み、占領してしまう」
 という、あからさまなやり方で、植民地を増やしていった。
 幕府も、秀吉もどこまで分かっていたかは分からないが、結果的に植民地になることもなかった。
 もっとも、地理的なものが優位に働いたということでもあったようだが、鎖国政策など、成功だといえるのではないだろうか。
 学校の歴史の授業などでは、どうしても、今の憲法にある、
「信仰の自由」
 という建前から、どうしても、鎖国や、キリシタン弾圧を容認するような境域であれば、矛盾してしまうことになるから、教育を受けた人間は。
「鎖国やキリシタン弾圧は間違っている」
 と、思わされてしまっているのだろう。
 しかも、明治政府の政策が、
「列強に追いつけ追い越せ」
 であり、
「富国強兵」
 を行うことにより、その時に結ばされた不平等条約を改正させて、本当の独立国家の道を歩もうとしたことも間違いではなかったであろう。
 歴史を学んでいくと、基本的に、その時代時代で、最善の方法を行ってきたということが分かるだろう。
 教育では、どうしても、今の時代と比較して、今の時代を正しいものだとして教育しようとすると、過去の歴史は、黒歴史の部分を中心に習っているかのように思えて仕方がない。
 本来の歴史教育というのは、そういうものではないはずだ。
 それが、もし、プロパガンダに利用されてしまっているのだとすると、世の中をどう解釈すればいいのか、やはり、
「過去に学ぶ」
 という姿勢がないといけないのではないだろうか?
「過去があって今がある」
 あるいは、
「今の答えは未来にある。歴史が必ず答えを出してくれる」
 という発想が、そもそもの歴史という学問なのではないかと考えるのだ。
 また、歴史という7-意味での言葉の中に、
「歴史は繰り返す」
 という言葉があるのを、ほとんどの人は聞いたことがあるだろう。
 一つのブームが一世風靡をして、それが去ったとしても、それから数年後に、またブームが訪れるなどという時に使ったり、政情などの、体制などが、一度滅んで、違う体制なったとしても、また、同じような体制が繰り返されるような場合などにも言われることだろう。
 たとえは、民主化を人民による革命で成し遂げ、民主主義政権を打ち立てても、しばらくすると、軍事クーデターが起こって、軍事政権が生まれることがある。そんな時でも民衆は、英雄となるべく、民主化を主導する、
「力のある先導者」
 が出現するのを待っていたりするのだ。
 かつてのフランスが、
「第〇共和制」
 だったり、
「第〇帝政時代」
 などというように、それぞれの体制を繰り返してきたのが、その典型ではないだろうか。
 帝政のように、抑えつけが行き過ぎると、民衆の不満が爆発するものだろうし、逆に共和制には、自由の代わりに、貧富などの差別が起こったり、多数決による決定のため、少数派の意見が、どんなに正しかったとしても、否定されたりと、民主主義や共和制には、どうしても限界がある。
 そのため、共和制政府はそれをまとめることができず、弱体化していくと、今度は、民衆としては、
「強い指導者」
 を求めることになるだろう。
 そのため、またクーデターが起こり、強い指導者による、独裁であったり、政府による弾圧などの、社会主義国家が生まれたりするのだ。
 それが、19世紀後半から、20世紀頭で起こった、帝政の解体であったり。ファシズム、社会主義の台頭だったりするのだ。
 第一次大戦の戦後処理の間違いと、世界恐慌などによって、国の体力によって、生き残りの難しい国は、どうしても、社会主義であったり、ファシズムに走りがちになるのだ。
 ファシズムの基本は、民族主義でもある。
「自分たちの民族が一番優れていて、他の民族の存在を認めない」
 というような極端なスローガンの元、求めていた、
「強い指導者」
 によるプロパガンダによって、国民が洗脳されていき、いつの間にか、世界征服の野望と、民族浄化などの発想の元、暴走を許してしまうという国家が生まれてくるのだ。
「こいつらではヤバいかも知れない」
 と思っても、もう遅い。
 完全に国家は独裁国家になってしまい、逆らえば、強制収容所送りとなり、同一民族であっても、他民族同様に、大量虐殺の中に放り込まれることになるのだ。
 そうなってしまうと、もう逆らうことはできない。ファシズムは暴走を重ね、無謀な戦争に突き進むことになる。
 そんな歴史が繰り返されたことで、人類がどこまで学んだというのか、世界中が焦土となり、人がまともに住める土地など、どこにあるというのかといわれるような世界を経験しておきながら、戦争はなくなることはない。そんな、
「歴史の繰り返し」
 はまっぴらごめんと言ってもいいだろう。
 幸いにも敗戦国である日本は、占領軍による、
「強制的な民主化」
 さらに、お隣の朝鮮半島で、戦争が起こってくれたおかげでも、特需もあり、戦後復興を一気に加速することができた。
作品名:小田原評定 作家名:森本晃次