ずさんで曖昧な事件
探偵小説における、
「耽美主義」
というものは、猟奇的な犯罪とイコールだと考えられた。
「死体を芸術作品のように飾るという犯罪者の美学のような考え方を描いた作品であり、犯罪者から見れば、耽美であり、捜査員や一般市民から見れば、ただの猟奇、あるいは、閉室者的な犯罪にしか見えない」
という考えである。
戦前、戦後という、戦前であれば、関東大震災や、経済恐慌などのような、激動の時代だからこそ、
「何が起こっても、不思議はない」
と言われたり、
戦後などでは、崩壊した母国が、戦勝国によって支配されるという屈辱的で、食事も住まいもまともにないという異常な時代だからこそ、余計に、
「何が起こったって、必然のことだ」
とでもいうような考えが芽生えていたに違いない。
その日一日一日、
「今日は死なずに済んだ」
と、戦時中からずっと考えていることだろうからである。
白河が、探偵小説に興味を持ったのは、この時代に興味があり、味わうことができるとすれば、当時書かれた小説を読むのが一番ではないだろうか。
しかも、
「何が起こっても必然だ」
と思われた時代である。
あくまでも、読んで想像することはできても、自分で書くことはできない。そんなギャップから、次第に、当時のトリックや、それを使うことができる時代背景に敬意を表しながら読んでいると、
「トリックというのは、実際には今の時代でも、バリエーションを利かせれば使えるものもある」
と思うようになった。
科学捜査が行き届いてきたこの時代で、アリバイトリック、死体損壊トリックなど、科捜研などで調べれば、一発で露呈するような小説は、なかなか書けないと思っていたからだ。
ただ、そうは言っても、実際のトリックはあらかた出てきてしまっている。そのせいもあって、
「これからのトリックは、いかにストーリー性であったり、エンターテイメント性において、読者をひきつけるかが問題で、トリックに関しては、叙述的なものが大きいのではないか?」
と言われている。
小説は、ドラマや映画のように、映像があるわけではない。視覚で捉えることができない感覚だからこそ、想像力が生きるのだから、それだけたくさんの可能性が秘められていて、いかに文章が読者の想像を掻き立てられるか、ある意味、騙しのテクニックでもいいわけだ。最後の最後で、読者が、
「やられた」
と言えば、作者の勝ちなのだ。
だから、探偵小説には、
「ノックスの十戒」
などと呼ばれるものがある。
あくまでも、探偵小説というものは、作者が読者に対して、挑戦状を叩きつけていると言ってもいいものであり、実際に探偵小説家の中には、小説の中お、
「起承転結」
における、探偵の謎解きの前に、
「読者への挑戦状」
というものを叩きつける作家もいた。中には、
「自費で懸賞金を出す」
とまで言った作家だった。
その作家とすれば、そういう触れ込みをしておけば、
「探偵小説のファンであれば、必ず挑戦したくなる。そうなれば、本を買うだろう」
と考えたはずだ。
その本はその作家の中の作品の中で、ベスト5に入る作品になったことはいうまでもない。
逆に一番ではなく、ベスト5ということは、
「それだけ、上には上の優秀な作品が、この作家にはたくさんあった」
ということになるのだ。
探偵小説というものが、日本では、まだ黎明期だった頃で、戦後間もない頃の小説家である。
もちろん、その頃の作家の活躍をリアルでは知らない。名前としては、
「日本三大名探偵」
の一角を担う探偵の生みの親だ。
ということは知っていた。
しかも、トリックにしても、デビュー作でいきなり、センセーショナルな作品を書き上げ、日本作家クラブ賞の最終選考にまで残り、僅差で敗れたというだけの実力の持ち主であった。
ただ、白河は、その作家の小説の数冊は読んだことはあるが、それ以外となると、少し二の足を踏む。最初がセンセーショナルだっただけに、飛びぬけすぎていて、それ以降の作品が色褪せるほどだったのだろう。
この作家は、社会派と呼ばれる小説も書いていて、そちらの方でも第一人者としての実力があり、平成の時代にも、テレビ化されるくらいだったのだ。
ちなみに、白河は、社会派の小説であれば。戦後の混乱の中、大学生が作った金融クラブで、ふとしたことから、詐欺のようなことがうまく行ったことで、まわりを巻き込んでの、詐欺を繰り返していた。
彼らは、大学でも、数十年に一度の大天才とまで言われていただけに、なかなか尻尾を出すことはなかった。
ただ、人間的なことで、少しずつ、精神を蝕んでいく社員が出てくることで、ギクシャクしてきたりした。
後半は、人間臭さと、詐欺への呵責のようなものから、果たして、果たして、どうなっていくかという、そういう作品だったのだ。
当時は、結構社会派小説には、そういう人間臭さや、差別問題などが絡むことで、犯罪が露呈したりというような、一種の、
「ヒューマンドラマ」
が、流行ったような感じだ。
この作家も社会派ミステリーの先駆者であり、黎明期を支えたと言ってもいいだろう。
白河はそれでも、その作家は探偵小説が好きだった。今でも、大きな本屋にいけば置いてあるので、最近、買い直して、読んだりしていたのだ。
だが、あくまでも小説を書くのは趣味なので、
「ノックスの十戒」
であっても、基本的に守りはするが、あまり気にしないようにしていた。
意識をしないと言っても、普通に書いていれば、十戒に背くことはないというのが、彼の思いで、実際に、書いている内容は、ある程度ずさんではあるが、最低限のマナーは守れているとは思っていた。
さすがに、人に見せたこともなかったが、最近では、少しずつ友達にも見てもらうようになった。
一つは、小説を見てもらえるような自信ができてきたことと、もう一つは、今まで小説を見せる気になるような友達がいなかったということであった。
小説を見てもらうような自信が生まれたというよりも、書き始めてから、一定の時間が経ったということで、
「そろそろ見せてもいいんじゃないか?」
と感じたことが理由だった。
だから、書いた小説に自信がある、ないという意識というよりも、
「この年月が自分をどれだけ成長させてくれたのか?」
という、時間に対しての薄い意味での意識だった。
そして、そんな小説を読んでくれる友達は、彼は彼で、音楽をしている人だった。別にそれぞれ、造詣が深いという話をしていたわけではなく、知り合ってから、どこか話がつながり、馬が合うというところがあったことで、友達になることができたのだが、そんな彼が音楽を、そして自分が小説を嗜んでいるということをお互いに知ってからというもの、二人の仲が急速に深まっていったのだ。
「仲が深まるって、本当に距離が縮まる気がするんだね?」
というと、友達も、
「そうだよな。これも、お互いに芸術を嗜んでいるという意識がそれぞれにあるからなのかな?」
と、いう話に対して、頷いている白河だった。
彼の名前は、芦沢という。