ずさんで曖昧な事件
ということである。
いかに小説を書き上げることができるのかということだけではない、他に何かを絶えず考えているから。小説というのは書けているに違いないのではないだろうか。
白河は、大学で、友達と一緒に、小説サークルに入っていた。そのサークルでは、年に何度か、同人誌のようなものを発行していた。もちろん、自費になるのだが、皆でサークルとして出すのだから、実際には結構安く上がっていた。
アルバイトで賄えるだけの部費で、自分の書いた話が、いくら同人誌とはいえ、本という形になるのだから、こんな嬉しいことはない。
個人でも、できないことはないのだろうが、出版社を探して、さらに、値段交渉をしたりして、結構面倒くさいことだろう。
しかし、サークルでは、今までの実績があるので、出版社も、ちゃんと見てくれるのだ。そのおかげで、本を出すことができる。個人での自費出版も安くあげてくれるようだった。
何冊か、自分の本を作ってもらったことがあった。その時は、粗末な本ではあったが、実際に、値段をつけて、フリーマーケットで売ったりもした。
数冊は売れたが、フリーマーケットで売ったわりには、ほとんど売れなかったと言ってもいいだろう。それでも、買ってくれた人がいたのは嬉しかった。
「本当に感謝しかないよ」
と言ったが、まさにその通りである。
友達も同じように出版してフリーマーケットに出したが、売れ行きは、若干白河よりもよかった。
「お前よりちょっとよかっただけか」
と言っていたが、本心は結構喜んでいるようだった。
とりあえず、自分たちの本を出版し、売るということにチャレンジもした。これは大学時代の一つの成果だったと思っている。
大学を卒業するまでに、
「プロになりたい」
という気持ちにはならなかった。
もし、少しでもそんな気持ちがあったなら、無理だとは思っていても、目標として掲げていたに違いなかったのだ。
小説のネタ
小説家を目指さなくてよかったと思っている。
小説家を目指してはいながったが、心の中で、
「あわやくば」
と思っていたのは事実である。
否定はしない。しかし、小説家になるということがどういうことなのかということが分かってくると、
「やっぱりならなくてよかったよな」
という意識である。
小説家というのは、確かに、クリエイトな仕事で、自分が書かなければ何も始まらないという意味で、
「何もないところから一から生み出す」
という意味で、実にやりがいのあることだ。
しかし、本当にそうだろうか?
小説家というものは、
「出版社あっての小説家であり、読者あっての小説家」
なのだ。
つまり、いくら自分で書きたいものを書いたとしても、売れなければ、ダメなのだ。まずは、出版社に認めさせなければ、売れないものばかり書いていて、誰が出版社から相手にされるというのだ。
出版社も売れる小説がほしいのだ。売れるものを書く小説家がほしいのだ。だから、最初に小説家が、小説を案、どんな設定のどんな話という大まかなものを企画として出して、それを、出版社の方で、編集会議を行い、そこでゴーが出れば、そこで初めて小説を書き始めることができる。
この際の編集会議には小説家は参加できないので、待っているだけである。ゴーサインが出て、初めてそこから、プロットを考えて、ストーリーにして、締め切りに向けて書き始める。雑誌のサイクルでの締め切りで、週刊誌であれば、週に一回。月刊誌であれば、月に一回というペースだ。
そして、連載を始めてから、初めて読者が見ることになるが、そこで作家も、初めて、読者の反応を知る。
少なくとも、自分で自信を持ち、編集部も、編集会議で許可をしたのだから、企画の段階では、少なくとも、出版社とは向いている方向は同じはずだ。そして結果として売れればいいが、作品の人気がなかったり、文庫本として発刊すれば、まったく売れなかったりすれば、編集部から、信用を一つ失うことになる。
厳しい出版社であれば、
「君はもういい」
ということになりかねない。
そうではない出版社でも、次回からは、出版社の意向に沿った作品しか、許可を出してくれなかったりする。つまり、
「書きたい作品が書けなくなる」
ということだ。
「書きたい作品を書けるという思いがあるから、苦しみながらでも小説を書いてこれたのだ」
と思うが、実際にはそうもいかない。
小説を書く苦しみの代わりに、書きたいものが書けて、できた時の喜びに浸れるのが、小説を書くという作業だったのに、それが仕事になると、主導権は出版社に握られてしまって、出版社の思う通りの一つの駒にしかすぎないっことを思い知らされる。
そんな状態に果たして耐えられるのか? いや、答えはノーだった。
最低限、好きなものを書く。それは譲れないところのはずだ。しかし、それができないのが仕事だというのであれば、小説を仕事にはできないということである。
仕事にしてもいいような、自分にとって、どうでもいい、少なくとも信念とは違う世界のものを職業にすれば、意外とうまく行ったりするかも知れない。
そんな風に思うのは不謹慎なのかも知れないが、皆だって、いつも、
「俺はこの仕事を続けていって、いいのだろうか?」
と考えているではないか。
早いうちに小説家として、趣味を仕事にすることの難しさやもどかしさがあるということに気づいてよかったと思った。趣味であれば、誰がなんと言おうとも、矛盾を感じることもなく、生きがいにするには、仕事としてよりも、少しでも身動きできる方がいいに決まっているのだ。
恋愛や、青春小説を書こうとして書けなかったのは、特に恋愛小説などに多い、
「ドロドロとした世界」
不倫であったり、嫉妬に塗れた世界を描く、一種の愛欲的な作品であったり、清純とはこれもかけ離れた、官能的な世界。これらを描くことができなかったからだ。
世間では、
「官能小説ほど、難しいものはない」
と言われるくらい、表現には制限があり、
「いかに想像させ、読者を興奮させることで、いかせることができるか?」
というのが、実に難しいところだ。
「読者に射精させなければ、それは、官能小説ではない」
という人もいるくらいだ。
官能小説だけではない。小説というものは、書いていい部分と、表現してはいけない部分とがある。性的な言葉でもそうだが、男女や、障害者などに対しての、差別用語であったり、個人攻撃になるただの誹謗中傷などは、タブーとされている。小説にも一定のルールがあるわけだが、それが、
「作者と読者の間に結ばれた暗黙の了解」
と言えるだろう。
白河は、大学を卒業してから、探偵小説なるものをよく読むようになった。それも、戦前から、戦後すぐくらいの作品で、いわゆる、
「探偵小説」
と呼ばれていた時代である。
この時代の探偵小説を読んでいると、官能小説に結びつく共通点のようなものがいくつか感じられた。その一つが、
「耽美主義」
と呼ばれるもので、
「秩序や道徳的な考えよりも、何においても、美というものが最優先される」
という考え方である。