ずさんで曖昧な事件
ただ、おばはんたちは、自分たちの考えが通らないことだけに、苛立っているのだ。それだけ考えが浅く、自分たちが中心でいれば、それだけで満足な単純な人種だということが分かった。
だからこそ、合理性など二の次で、自分たちの狭い社会が、すべての世界に通用し、共通なのだと思い込んでいるのだ。それこそ、まるで宗教的な考えではないだろうか。
「こういうおははんたちって、宗教にコロッと騙されたりするんだろうか?」
と考えてみた。
宗教も、おばはんも似たようなものに見えるというと、失礼かも知れないが、(と言って何に失礼なのか分からない)どちらも一緒にされたくないと思うことだろう。
一般の人からすれば、宗教もおばはんたちも、
「必要のないもの」
という意味で、五十歩百歩で、
「どっちもどっちだ」
と思っていることだろう。
ちょうどその時、レジに他の客が入ってくることはなかったので、やってみた、一種の茶番劇であったが、実に楽しかったことを覚えている。
「こんなこと、大学生じゃなければ、できっこないよな」
というと、
「だけどさ、あのおばはん達だって、きっと、何十年か前は、俺たちのような大学生だったのかも知れないよな」
と友達がいうと、思わず、ゾクッとしてしまった。
キャンバス内で、輝いて見える女の子たちの将来が、
「あれ」
だと思うと、それだけで、ゾッとするものがある。
「おばはんなんて、ずっとおばはんだったかのように思っていたよ。そんな自分が恥ずかしい」
というと、
「それはもっともだ」
と言って、二人で笑うのだった。
そんな白河は、自分のことを。
「勧善懲悪だ」
と思っていた。
まるで、水戸黄門や当山の金さんのように、悪を懲らしめるという考えである。
最近では、そのような時代劇も、再放送でしか見なくなったが、ちょっと前までは、ゴールデンタイムの午後8時台にやっていたものである。
そういえば、テレビの番組も、相当様変わりしたものだ。昔のゴールデンといえば、シーズン中は、プロ野球中継であったり、子供番組であったりしたものだが、今はすっかり、プロ野球中継もなくなってしまったり、子供番組などのアニメもなくなった。
原因としては、野球の場合は、
「試合終了までスポンサーの関係や、後続番組の関係で放送されないこと、さらには、後続番組を見ようとしている主婦などは、時間がずれることで、予定が立たずに、どちらに対しても不満だけが残る」
という状態になった。
しかし、20年くらい前から、それを、有料放送が解決してくれるようになった。つまり、
「月々、数百円で、ひいきチームの試合を、試合開始から終了、ヒーローインタビューまで見れる」
ということである。
元々テレビ番組は、
「スポンサーありき」
だったのだ、
放送の資金源はすべてスポンサー。だから、客がお金を払えば、スポンサーも問題はなくなる。
「お客様ファースト」
の番組が作れるというわけである。
そのおかげか、ケーブルテレビとして、それぞれに特化したチャンネルの放送局ができてくる。バラエティー専用、映画専用、ドラマ専用などの番組で、同じように月々いくらという契約である。そうすれば、ドラマは懐かしのアニメなどが、好きなだけ見れるというのが売りだったのだ。
ただ、最近では、それがさらに進み、配信という形で、テレビでなくとも、スマホなどで見れるようになり、テレビ離れが深刻になってきている。
「ユーチューバーなる、わけのわからない連中が、月数千万も稼ぐ」
という、おかしな時代になってきたのだった。
子供のアニメだって、今の子供はアニメよりも、ゲームに夢中になっているので、そういう意味でも、子供がテレビ画面で見ているのは、ゲームということになる。
今のゴールデンというと、それこそ、よく分からない芸人などが出てきて、情報番組に近いのか、それとも、やらせに近いようなバラエティーが主流になってきている。
昼の情報番組で、シリアスなニュースなどでも、MCや、レギュラー出演者のほとんどが、芸人という、
「何が情報番組なんだ?」
と思うようなものも結構あったりする。
「芸能番組じゃないんだから」
と思わせることも多いが、どうしても、チャンネルを変えてしまう人は結構いるのではないだろうか。
そんなテレビを、白河は結構見ていた。どちらかというと、ドラマが好きで、最近は、録画してまで見ることが多くなっている。
白河の趣味は、大学時代からであるが、
「小説を書くこと」
だった。
大学に入るまでは、本を読むことすらなかったのに、大学で友達になったやつが、
「俺は趣味で小説を書いているんだ。小説を書いていると、結構スッキリするんだぞ」
というではないか。
「どうしてだい?」
「だって、どうせフィクションなんだから、書きたいことを書きたいように書けばいいんだ。この間の、おばはんたちのことだって。俺は好き勝手に小説にして書いたものだよ」
というではないか。
なるほど読んでみれば、あの時のことを思い出すことができて、また気持ちがせいせいしてくる。
「ストレス解消にはちょうどいいんだ」
というではないか。
そんな彼に影響を受けて、小説を書き始めた。最初はテレビドラマなどのような、青春小説系や、恋愛小説系を考えていたが、どうもうまくいかない。特に恋愛ものというと、ドラマなどでは、どうしても、不倫系であったり、重たい話が多くなり、自分自身が、そんな重たい話が好きではないので、好きでもないものを書けるはずもなく、結構早い段階で挫折した。
次に考えたのが、オカルト系の小説であった。
「やはり、ドラマを見るよりも、実際に活字を見る方がいいに決まっている」
ということで、本屋の文庫本コーナーで、結構見てみたのだが、その中に、短編集を得意とする作家がいて、読みやすそうなので買ってきて読んでみると、
「嵌ってしまった」
その小説は、奇妙なお話が書かれていて、しかも、最後の数行で、どんでん返しが起こるという実に興味のある話だったのだ。
それですっかり、その作家の本をほとんど読破した。いくつもの文庫からたくさんの本が出ていて、一冊に10作品くらい書かれているのだが、そんな本が、全部の文庫を合わせると、100冊以上もあるのだ。
ざっと見積もっても、1,000作品もあるのだと思うと、ゾッとする。作品数はそのまま、それだけのアイデアがあるということなので、内容に関係なく、
「小説をたくさん出版している人は、それだけでも、すごいことなんだ」
と思うようになった。
もちろん、中には似たような話もあるかも知れないが、限られたテーマの中で書いているのだから当たり前のことだろう。
確かに、可能性が世の中には無限にあるのだろうが、小説にできるような内容ともなると限られている。それでも書けるということは、
「作家というのは、本心では、限られていると思いながらも、本人の感触として、無限にあるものだと思っているからこそ、これだけの話が書けるのではないか?」
と考えるようになった。
つまりは、
「天才には、凡人にない発想が潜んでいるんだ」