ずさんで曖昧な事件
その事件を捜査していた警察が、一つ姉川以外の証言を見つけることができた。
その証言というのは、だいぶ下の階に住んでいる人の証言で、事件は、5階のフロアで起こったのだが、ちょうど2階に住んでいる住人が、ちょうど表から帰ってきて、部屋に鍵を開けて入ろうとした時、非常階段になっている螺旋階段を、一人の男が、急いで駆け下りてくるのが見えたというのだ。
彼は、まさか上の階で、殺人未遂事件が起こっているなどということを知る由もなかったので、
「5階から、誰か急いで駆け下りているな」
という様子と、マスクをして帽子をかぶっている怪しげな服装だったので、
「覗きでもやって、それを咎められたことで、逃げ出したか何かしたのかな?」
という程度で思っていたということであった。
ちょうど、夕方くらいの時間で、西日が差していたことで、ちょうど、目くらましのような形になった。もろに太陽の眩しさを感じたことで、
「幻でも見たのかな?」
とも感じられたほどなので、実際にそれ以上きにすることではかったのだ。
それを警察に話すと、
「なるほど、マスクをかけていたというのは分かったんだけど、逆光だったのと、上から降りてくるということで、次第に目がくらむ感じになったことで、よく分からなかったということですね?」
と刑事は、納得したように言った。
刑事も納得して、
「ありがとうございます。時間的には合うので、その男が犯人かも知れませんね」
と刑事は言った。
刑事も、証言通りだと感じたのだろう。
この証言をした人は、年齢的には、姉川よりも、少し年齢の高い人だったようだ。姉川とは年齢が近いことから、面識があった。よく将棋をうつ仲間として、公民館で、二人で将棋を楽しんでいる姿を見かけることがあったという。
そのおかげで、そのあと公民館で将棋を打ちながら、
「ああ、あの事件では、定岡さんも犯人を見られたんですか?」
と、姉川が、定岡と呼ばれた男に話していた。
「ええ、顔は確認できなかったんですけども、マスクをして帽子をかぶった、いかにも怪しげな男を見かけたんですよ」
と定岡と呼ばれた男が言った。
「帽子はどんな色でした?」
と姉川が聞くと、
「確か、緑だったような気がしますね」
「それを警察には?」
と聞かれた定岡は、
「もちろん、言いましたよ」
というと、姉川はそれを聞いて、ニッコリと微笑んだ。この二人の会話を聞いている人は誰もいなかったが、もし誰かがいれば、こんな話をしなかったかも知れないと、二人ともに思った。
ただ、どちらの方が意識が強かったのかというと、姉川の方だったような気がする。
まるで聞き方が、何かを確認しているようだったというのが、まわりに誰もいなくてよかったと考える姉川の気持ちだったのだろう。
二人がこんな話をしているなどと知らない警察の方でも、逃げた犯人のことを、話していたのだった。
「黒いマスクをして、青い帽子をかぶった男というのが、目撃者の話だったんだけど」
と、一人の刑事がいうと、
「ん? 私は緑だったと聞くけど?」
ともう一人の刑事がいうと、
「そりゃあ、場所や角度が違えば、同じ色でも違う色に解釈する人だって出てくるだろうよ」
と、言われ、
「そうかも知れませんね。逆光で眩しかったという話だし、彼は2階から、降りてくる人を見たということだから、光の反射や屈折は著しいのではないだろうかね」
と今度は別の刑事が言った。
「なかなか証言を一つにまとめるのは難しいが、目の錯覚だってあるということを認識しておいた方がいいですね」
と、二人の上司がそう言った。
被害者は、名前を、藤原という男であった。ナイフで刺され、救急車で運ばれたが、命に別状もなく、2日後には、警察と話ができるほどになっていた。彼がそれほどひどいケガではなかったのは、完全に急所を外れていたからだったが、そのあたりのことも含めて、警察の事情聴取が行われた。
病室は手術の次の日には、集中治療室から、一般病棟の個室に移された。医者からは、
「事情聴取はしてもかまいませんが、何しろ術後なので、長くても30分くらいにしてください」
ということで、許可を得ることができた。
「分かりました」
ということ、二人の刑事が、事情を聴くことにした。
「すみません。藤原さんですよね? 少しお話が伺えますでしょうか?」
ということで、警察手帳を提示した二人に対して、
「ええ、かまいませんよ」
と、藤原は、軽く答えたが、そこには感情が入っていないように思えた。
「藤原さんは、刺された時のことを覚えていらっしゃいますか?」
と聞かれて、
「それが、どうもおぼろげなんです。家に帰ってきて、カギを開けて中に入ったのは憶えているんですが、そこから先のことが分からないんです」
というではないか。
「じゃあ、藤原さんは、部屋に入った時、いきなり誰かに襲われたということですか?」
「ええ、そうだと思います。背中に痛みを感じたのを覚えていますから」
それを聞いて、刑事は、
「なるほど」
と感じた。
確かに、藤原の背中にはナイフを突き刺した跡があった。鑑識の話では、血もそんなに落ちていないし、発見が早かったので、致命傷には至らなかったのだろうということだった。だが、実際に彼が倒れていたのは、玄関から、リビングに向かう廊下の途中だった。犯人がとどめを刺さずに逃げたのは、なぜなのか分からなかったが、後で通報者の話を聞いた時、話がつながったような気がした。
ただ、被害者は、少し這っていき、逃げようという気持ちがあったのかも知れない。
犯人はその場から立ち去り、目撃者によって、急いで警察と救急に連絡が入ったので、犯人はとどめを刺さずに逃げたのだろう。
「何か、他に覚えているようなことはありませんか?」
と言われて、
「そういえば、意識が薄れていく中で、何かが割れるような音がしたのを感じました」
というではないか。
確かに、玄関先にあった花瓶が割れているのが分かった。被害者が倒れていたのは、その花瓶が割れている場所から少し入ったところだったので、花瓶が被害者まで飛び散ったということはない。
「現場を見た鑑識が、まるで、被害者を避けるようにして花瓶が割れたのか、花瓶が割れるのを知っていて、そこまで這って行ったのか、少なくとも、花瓶が割れたことに、誰かの作為めいたものを感じますね」
といっていた。
「花瓶が割れたことで、気が付いた人が通報してくれたとすれば、花瓶が割れたことはある意味よかったのかも知れませんね」
と刑事がいうと、
「そうですか、あの花瓶をあそこに置いたのは、先週からだったんですよ」
と藤原は言った。
「ほう、それは興味深いですね」
「以前、スナックで飲んだ時、そこのママさんが、玄関先に花瓶を置くと、幸運が舞い込むというような話をしていたんです。半信半疑でしたが、私は意外とそういうことを信じる方なので。花瓶を置くようにしたんです」
「そのスナックを後で教えてください。そこは常連なんですか?」