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探偵小説のような事件

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 女は、後ろから追いかけられる相手に、恐怖の形相を見せ、そして追いかけている人間は、女に襲い掛かる。
「キャー」
 という声が聞こえて、しばらくは、追っかけっこが続く、やっと女に追いついて、手に持っているナイフで、女に切りかかるのは、なんと夢の中での自分だった。
 しかし、夢の中だからであろうか。女を襲っているということに、罪悪感はまったくなかった。むしろ、
「あんな高飛車な女、切り付けられたって、ざまあみろという気分だぜ」
 と、心の中でほくそえみながら叫んでいたのだ。
 そして、いよいよ切り付けようとした時。こちらを見ている男がいた。女の悲鳴に反応してやってきたのか、その男の顔に見覚えがある。
「そうだ。あれは俺じゃないか?」
 スポットライトを浴びたように、相手の顔はハッキリと見える。
 自分は顔を見られたと思って、取るものもとりあえず、走り去ったのだ。
 実際の事件現場を夢に見たのだ。それも、犯人は自分ではないか。犯人の顔を見ることができなかったのは、逆光だったのを、犯人だって分かっているだろう。もし分かっておらず、
「男に顔を見られた」
 と思っていたとすれば、杭瀬の命も危ないかも知れない。
 だが、これはあくまでも夢なのだ。
 その夢の中で何となく違和感があった。複数あったような気がしたので、思い出せるかどうか……。
 一つ目に感じたのは、
「悲鳴が聞こえてから、俺が出てくるまでに時間が掛かった」
 ということだった。
 最初声を聞いてから、すぐに駆け付けたので、実際には数秒くらいのものだったように思えるが、今の夢では、数分かかったかのように感じた。
 これが違和感だったが、もう一つは、夢の中だからだろうか。女を追いかけている時、なかなか追いつけないのだ。
「追いついているはずなのに」
 と思って走っていたのだが、その理由もすぐに分かった。
「どうやら追いかけていたのは、女の実像ではなく、影だったようだ。影を追いかけているのだから。追いつけるわけもない。まるで、蜃気楼を見ているようだ」
 蜃気楼というと、逃げ水という言葉にあるように、砂漠などで、見つけたオアシスが、近づくにつれて、消えてしまうというものだ。
 実際にそこにあるわけではなく、見えているオアシスは、別のところにあって、砂漠の乾燥した空気が、湿気もないのに、湯気となって沸き立つことで、錯覚を起こさせるものである。
 そんな蜃気楼を見ているように、影をまるで、本当の姿のように錯覚し、追いかけてしまう。それが、逃げ水と同じ感覚だといえるのではないだろうか。
 時間に関しては、そもそも夢に、時間という概念はない。
 夢というものは、どんなに果てしない夢を見たとしても、それは、目が覚める数秒間のことだという。
 つまり、時間という感覚が、時間を飛び越えるのは、夢の中で、強引に辻褄を合わせようとするために、夢の世界は果てという感覚がないような働きになっているのかも知れない。
「つまり、縦、横、高さという三次元に対し、どの方向に時間軸を引けば、四次元の世界として成立するのだろうか?」
 という考えに至るのではないだろうか?
 夢の中で、蜃気楼を見た感覚になるのは、意識が朦朧とした夢を見ているからだという感覚になるからだ。
 蜃気楼というものは、一体どこにあるのかを考えてしまう。。
「逃げ水」
 というのは、その名のごとく。見えている水に近づいていくと、目の前にあったものが、急に消えて見えなくなるものである。
 実際には、なかったものが見えていたことがおかしいのであって、別に見えていた水が消えてしまったことがおかしいわけではない。見えていたはずのものを、
「絶対に見えていたはずだ」
 と信じて疑わないことから、見えていたものが見えなくなったということを疑ってしまう。
 実際にその場にいけば、存在していないわけだから、消去法で考えれば、
「最初からなかったのだ」
 と考える方が、何十倍も信憑性があるというものだ。
 それが分からないということは、それだけ砂漠において意識が朦朧としていて、思考が停止してしまうほどになるのだろう。
 そもそも、湿気がないのに、砂漠で水が見えるほどの蒸気が上がるというのはどういうことなのだろう?
 日本の都会のような、コンクリートジャングル(死後か?)でも、雨が降らない時であっても、湿気がひどかったり、コンクリートを水平線として見た時、湯気のようなものが沸き立っている。それが誇りと一緒に塵として湧き上がることで、蜃気楼のような現象になるのだが、
「雨も降っていないのに、どうしてこんなに湿気があるかのようになるのだろうか?」
 と考えるのだ。
 まさか、砂塵が舞い上がる時に、水のような効果があるわけではあるまいし、同じ原理で、砂漠で逃げ水が見えたりするのかも知れない。
「夢まぼろし」
 とはよく言ったもので、夢が幻を作るのであれば、起きていて見る夢だってあるわけなので、起きている時に、幻が見えたとしても、理屈に合わないわけではないだろう。
 それが蜃気楼であり、逃げ水だとすれば、ロマンチックな印象にもなるというものである。
 それを思うと、夢とまぼろしは、切っても切り離せないものだと思える。
 夢を見た時に感じるのが、
「まぼろし」
 現実の中で感じるのが
「幻」
 どっちがどっちともいえないが、逆であっても、全然いいような気がする。
 どこが間違っているというのか、感じ方はひとそれぞれで、字に書いてみた時の、そのバランスが大事だということを、杭瀬は感じていたのだった。
 そんな夢を見ていると、
「夢というのが、すべてまぼろしではないか?」
 と感じるようになっていた。
 それは、まるで夢の入れ子のような感覚で、
「例えば、不眠症になり、眠れないと、毎日悩んでいて、病院で診てもらったとしよう。しかし、実際に精神科で診てもらっても、どこが悪いのかハッキリと分からない。だが、確かに、眠れないと叫んでいる自分しか見えてこない。そして気が付けば、また朝になっているのだった」
 という話があった時、オチとして言われていることは、
「実は、眠れないという夢を見ているというオチだった」
 というのだ。
 ちょっと考えれば分かることなのだが、眠れないということが、呪縛になってしまい、普通なら理解できることを考えられなくなってしまい、そこから起こる負のスパイラルから、逃れることができなくなるのである。
「夢の中で一番怖い夢は何か?」
 と聞かれて、最初に思いつくのは、
「夢の中で、もう一人の自分を見ることだ」
 と答える。
 つまりは、もう一人の主役の自分を夢で見ている自分がいるということだ。この発想は、箱庭に入っている自分を、表から見ている自分がいるというような発想と同じなのではないだろうか?

                 第二の事件

 翌日目が覚めて、夢のほとんどは忘れていたが、
「もし、何かを覚えているとすれば?」
 と言われたとして、記憶に引っかかっているのは、逃げ水であった。
作品名:探偵小説のような事件 作家名:森本晃次