謎は永遠に謎のまま
あれは、三年生の時だったか、川北が好きになった女性がいた。その彼女には友達がいて、その友達と、飯塚が仲良くなったのだ、お互いに好みが違うということで、バッティングしなかったのはよかったのだが、
「世の中、そんなに甘くない」
とでも言えばいいのだろうか。
というのは、
「お互いに、2カップルともうまく行っている時は問題ないのだが、どちらかがうまくいかなくなると、意外と問題が大きくなるということを、当事者全員が分かっていなかった。
それは後から思えば、
「なんで、分からなかったんだろう?」
と思うほどのことだった。
飯塚はともかく、加減乗除の考え方がモットーである川北に、その発想がなかったのは、友達同士でWカップルになるということが、実は、計算通りにいかないということではないだろうか。
というのも、うまく行っている時のことしか考えられないほど、実にうまい関係だと最初に思い込んでしまうからであろう。
「うまく行かなくなるなんてありえない」
とまでに思うのは、思い上がりではあろうが、そう思ってしまうのも、無理もないことで、人間なるべく、無難な考えに落ち着きたいというのが、人情というものだ。
特に、うまく行っていることを、わざわざ悪い方に考えて、余計な気遣いをしたために、うまく行かなかったのだとすれば、そっちの方が、後悔も大きいというものだろう。
そういう意味では、
「これは致し方のないことであり、未然に防ぐというのは、至難の業だ」
と言えるもではないだろうか。
それを考えると、
「男女の関係というのが、摩訶不思議なものだ」
ということを、証明しているかのようではないだろうか。
最初にうまくいかなくなったのは、飯塚の方だった。
些細なことと、偶然から、勘違いが生まれてしまって、その勘違いを取り繕うということを男の方がしたために、却ってこんがらがてしまい、女性の不信感は最高潮になった。
それは、最初の勘違いを、彼女なりに、
「何とか、自分がちゃんと受け止めて理解できさえすれば、修復できる7」
と思ったからだった。
そういう意味で、川北と彼女の友達がいい仲になっているというのは、幸いだったはずだ。
しかし、それを余計なことをしたために、却って彼女の疑惑を深めてしまったことで、さらなる疑心暗鬼を生んだのだった。
一度ならず二度までも、裏切られたと思った彼女には、もう修復するだけの力はなかった。
完全に脱力感に包まれてしまい。結果は完全な凍結状態、氷が解けるということはなかったのである。
そのために、せっかくうまく行っていた川北も、彼女の、
「私は、彼女の友達だから」
という一言で、壊れてしまったのだ。
川北も、ずっと、友達と彼女の間のジレンマに苦しんでいた。
「友達を取るか、彼女を取るか」
ということであり、正直、彼女を選ぼうとしていたのも事実だった。
だが、そんな彼女からの、絶縁を通告された時、
「やっぱり、女なんだ」
と、愛情よりも友情を取った彼女に対し、若干の恨みもあったのだが、ここに男女の違いを思い知らされたことで、ハッキリとは言い切れないまでも、
「どうせ、この女は自分を最優先にはしてくれない」
ということを、自分なりに納得できたことで、一気にそれまでの気持ちも冷めてしまった。
結局、友情がすべてだと思っていたが、それも、就職活動などの、リアルな問題に直面したことで、なかなか距離が縮まらず、次第に距離を詰めようという努力ができなくなっていた。
就活というのは、それほどに大変なことであり、そんな大変な道を乗り越えてきた結果が、二人とも、苦しむことになったのだとすれば、
「距離を保っていたこの2年間、一体何だったのだろう?」
と、思わずにはいられなかったのだ。
氷上渡りの神事
そんな時代を乗り越えてきた二人だったので、実際に一緒にいた時期の懐かしさと、気まずくなり、お互いに話のできなかったその頃の心境やお互いのジレンマなどを話していると、夜を徹しても話が尽きないというそんな時間だけが過ぎていた。
あっという間に時が過ぎるというのは、時間の感覚がマヒしてしまっているからであり、逆に、時間がなかなか過ぎてくれないというのは、ただの錯覚ではないかと思えてきた。
感覚がマヒしているのと、錯覚とではまったく違うことではないか、正反対だといってもいいかも知れない。何しろ、それぞれに至るまでの精神状態がまったく違っているというのだから、それも当然のことであろう。
だが、それをまたよく考えてみると、
「その根底にあるものは、結局同じものなのではないか?」
とも考えるようになっていた。
その考えというのは、
「時間という概念がそもそも、曖昧なものだ」
と言えるのではないかと思っているからだ。
実際に同じ感覚で刻んでいるのが時間だと考えるならば、標準となる時間というのは、どこにあるのかという素朴な疑問である。
一秒という感覚は何をもって一秒なのか?
「心臓の鼓動? それとも何か基準になるものがあるというのか? 心臓の鼓動にしても、人が違えば当然違うし、同じ人であっても、心境がまったく同じでなければ、同じ時間を刻むことはないはずだ。そもそも、同じ心境で同じ時間を刻むといえるのか? 体調の微妙な違いもあるからだ」
と考えられる。
長さだってそうだ。
特に、長さや重さ、それは、国によっても違うし、時代によっても違う。
長さは、メートル法表記もあれば、フィートやマイルなどという基準の違いもある。重さに至っては、グラムが単位であるが、昔は、1貫まどという単位もあったではないか、長さにしても、尺や間、などという単位もあった、それとメートル法に直しても、割り切れる単位ではない。完全に違う発想から来ているものだ。
そういう意味で、
「何かを図るための基準となるものが、ここまで曖昧でいい加減に見えるものであるのだから、感覚や心境などと言った、概念しかないものを、どう図ればいいというのだろうか?」
と考えれば、何事も結局は曖昧にしか見えてこないというのも、無理もないことだといえるのではないだろうか。
その日の夜、話が終わっても、すぐには寝付けなかったのは心臓の鼓動が気になって、そんな曖昧なことへの発想が生まれてきたからだった。
「そんなことを理解できたとして、それが何になるというのか?」
ということであるが、川北はそんなことを考える時間が、今は必要なのではないかと思った。
なぜなら、この間まで、感覚がまったくマヒした毎日を過ごしてきて、今はその疲れを癒すという。まるでリハビリのような時間だからだ。
曖昧でどうでもいいようなことを考えることがリハビリになるのではないかと、実はここに来る前から思っていた。
それを思うと、川北にとって、
「どうでもいい時間は、これすべて、リハビリになるのだ」
と考えていた。
一緒に話をしてくれた飯塚には悪いと思うが、それだけ、いい加減な時間を楽しみにしていたことで、飯塚がどんなにまじめに考えていようとも、川北にとって、自分では曖昧でしかないのだった。