謎は永遠に謎のまま
朝食を終えてから、もう一度、盛岡に行くことにした。この村にいても温泉での療養はできるが、何も見るところがないからだ。確かに岩手県というと長期滞在には向かないかも知れない。確かに川北も田舎出身とはいえ、南国の方なので、生活環境がまるで違う。なんと言っても、一面を雪で覆われたこの街で、一日24時間は長すぎるというものであろう。
川北は、ゆっくりとしたかったが、どちらかというと飽きっぽいところがあった。その性格を飯塚も分かっていたので、ずっとこの村に一日中いるというのも大変だとは分かっていた。せめて何かをするための道具くらいは与えなければいけないだろうと感じていたのだった。
それは、例えば、本を読んだり、マンガを読んだりとかもいいし、何か芸術的なものを作るというのもいいだろう。
川北は、システム開発の人間なので、本を読むよりも何かを作る方がいいに決まっている。飯塚が聞いてみると、川北は。ノートパソコンを持っては来ているという。
「退屈で仕方のない時は、ネットでも見ていようかと思ったんだ」
ということであったが、せっかくノートパソコンを持ってきているのであれば、何かやろうと思えばできるだろう。
「推理小説だったら、俺がたくさん持っているので、いつでも本棚から好きなものを読んでくれてもいいんだぞ」
と飯塚は言った。
なるほど、飯塚の部屋を覗くと、本棚が3つもあり、そのほとんどにミステリーが、所せましと並んでいる。これは、少し小さめの本屋で、文庫本のコーナーいっぱいくらいの分量だ。ここまで集めたのは、大学時代からだったのか、それとも彼も田舎に引きこもってしまい、やることがなくなってしまったことで、また本を読もうと、集めたものなのかも知れない。
新品が多かったが、中には中古を思わせるものも結構あった。今では本屋も、いや、書籍出版関係が、どんどん規模を縮小し、かつてあれだけ売られていた人気作家の本も、今では、店頭に並ばないばかりか、絶版になっているのも結構ある。
今から思えば、昭和というのが、一番本があふれていた時代だったのかも知れない。
ここまで、本が衰退したのは、活字離れがどんどん進行したこと、裏を返せば、マンガやアニメの文化が花開いたということ、そして、決定的だったのは、2000年代に入ってから、電子文庫なるネットの普及により、ペーパーレスが進んだことである。
2000年代当初はまだ、紙の書籍もまだまだあったが、
「本にしませんか?」
なる出版社、いわゆる、
「自費出版系の出版社」
が蔓延ってきたことが大きかった。
当時は、本を出したいという素人が、一番世の中にあふれていた。バブルが弾けて、それまで仕事ばかりしかしてこなかった人が、趣味を持たなければ、時間を持て余していた時期であり、主婦の方も、空いた時間を持て余すようになると、この自費出版系に飛びついたのだ。
「自分にだって、本を出せる」
という思いを誰もが持ったために、少々高額でも、飛びつく人が多かった。
「本を出しさえすれば、いずれは作家のプロになれる」
とでも思ったのか、先行投資のつもりで、よくも、数百万という金を一冊の本のためにポンと出せるものだと思うのだが、彼らのその時の心境は、想像を絶するものがあった。
だが、そういう出版社は、しょせん自転車操業でしかなかった。歯車が狂えば、一気に破綻してしまう。まさにそれを絵に描いたように、全盛期を迎えた翌年には、破綻していき、同種の会社もどんどん同じ運命で落ちぶれていった。ブームとしては5年も続いてはいない。それこそ、
「バブル経済の短縮バージョン」
と言ってもいいだろう。
当時騙された人間に同情はしないが、人を騙そうとすれば、必ずどこかでボロが出る。人が増えれば増えるほど、そのリスクは高まるということを分かっていなかったのか。後から思えば、出版社の人間も、よくもこのようなやり方でうまく行くと思ったのか? と感じるほどの内容に閉口してしまうほどであった。
そういうこともあり、今ではすっかり素人はネット上で公開するという形が多い。
「お金もかからないが、お金にもならない」
自費出版のように、先行投資で数百万を投資しても、結局一円にもならないのであれば、書いたものを無料で公開できるのだから、この方が平和だし、よほど、問題になることはない。
自費出版社の破綻が、詐欺として社会問題になると、もう、本を出したいという人間はほとんどいなくなり、結局、それまでの単純に小説を書きたいと思う人間だけの人口になり、
「これが平和というものだ」
と感じるようになったのだ。
だから、自分たちが大学でミステリー研究をしていた時に集めた本は、中古が多かった。ミステリー研究会には、結構部員はいた。幽霊部員のような人も結構いたが、マジでミステリーが好きで、評論をしてみたり、自分で執筆する人もいた。それぞれ、両方という二刀流もいたが、二人とも、小説を読む方に所属していた。評論をするなどというのは、なかなかおこがましいと思っていたので、ただ読んで感想を話し合ったり、自分たちで、トリックを研究してみたりした。
ただ、ミステリーのトリックというのは、いくつかの種類に分かれるが、もうほとんど、その種類は出着きしていると言われている。それは、日本では探偵小説と言われていた、ミステリー小説黎明期のことであり、すでに、そんな状態でのミステリー界では、
「出尽くされたトリックを生かすには、バリエーションを利かせて、いかにうまく設定であったり、背景等にうまくトリックを絡め、あとは小説の書き方でカバーするかということが大切だ」
と言っている人がいたが、まさにその通りだろう。
そのためには、少し邪道と言われるかも知れないが、他のジャンルに抵触するような作品があってもいいかも知れない。昔であれば、タブーだと言われていたのかも知れないが、恋愛と結び付けたりすることである。
昔の探偵小説は、
「探偵小説に恋愛の要素を結びつけるのは邪道」
と言われ、探偵の恋愛物語は御法度のように言われていたが、有名作家が、自分のレギュラー探偵に恋をさせてみたりしたことが読者に新鮮味を与えた作品もあることから、今では探偵の恋愛のパターンも結構あったりする。
ライトノベルであったり、BL、GLなどと言った。恋愛に幅ができたり、小説というものが、気軽に読めるものだという発想になったことで、ある意味、小説界が、まるでマンガを読んでいるような感覚になってきたのかも知れない。
逆にマンガが、今ではドラマや映画の原作に取って変わったことから、小説のようなストーリー性を重視したものが出てきたことで、マンガと小説というものが、内容的にあまり変わらないという感覚にもなってきた。
これは、マンガも小説も、世界が膨張してきて、接触面が増えたことからの現象だと考えると、納得がいく。
小説の場合は、衰退を免れるために、広げた幅なのだろうが、マンガの場合は、そこmで切羽詰まったというよりも、マンガ家志望がたくさんいて、そのことがジャンルを増やしてきたことで膨れ上がってきたのだろう。
「マンガは日本の文化だ」