後味の悪い事件
扉が開いて、5階に出ると、そこから、横に一直線に、通路がつながっていた。本来高所恐怖症の松岡君は、ギリギリ下を見ても怖くない程度の高さにいることを感じたが、こちらの光景は、自分が上がってきた川側の土手の方向ではなく、川から反対の平地の方であった。
それだけお高さがあるのだから、正直長居はしたくないところであった。
配達なので、そうもいっていられない。注文の部屋は、この階の真ん中あたりの部屋で、初めてのお客さんだった。
目的の部屋の前に到着した松岡君は、少し深呼吸をして、呼び鈴を推した。深呼吸をしたのは、別に息が乱れているからではない。ずっと一人だったところで、人に対面するのだから、それなりの緊張があるというものだ。あまり、人付き合いのいい方ではない松岡君にとっては、配達員と客というだけの、形式的な会話であっても、どうしても緊張してしまうのであった。
「何か文句を言われたり、無茶ぶりのようなことを言われたらどうしよう」
という気持ちがあるのだ。
実際にはそんなことはなかったが、ついつい人間関係において、そこまで考えてしまうのは、普段から一人でいる人の特徴であった。それを、
「悪い癖」
と、までは思わないが、実際には、
「仕方のないことだ」
と思うことはしょっちゅうだったのだ。
そういう意味では、ほとんど何もなかったこのマンションは比較的楽なところであり、配達依頼がこのマンションからあった時は、心の中で、思わずガッツポーズをしてしまうほどだったのだ。
5階の他の部屋には配達に行ったことが何度かあったが、この部屋は初めてだったことは、ちょっとした不安材料であった。それでも、ここまで来て、そんなことも言っていられない。思い切って呼び鈴を推したのだ。
返事はなかった。
「あれ?」
と思い、もう一度押したが、またも返事がない。
一応、留守であれば、その場に商品を置いてくればいいということになっていて、保温バックに入れてくるようにしていた。
在宅のお客様には、中身を確認いただいて、中身だけを渡すようになっているが、留守宅では、そのまま置いてくることにしている。
本当は留守宅というのは、顔を合わせないから楽ではあるが、最終的に保温バックの回収が発生するということで、手間という意味では厄介だった。
ちゃんと、後で来た時、表に保温バックを置いてくれているという保証はない。それほど世間の人間に期待をしてはいけないということではあるので、なるべく、在宅でいておしいと思うのは、松岡君だけではないだろう。むしろ、他の連中の方が切実に考えていることなのかも知れないのだ。
呼び鈴を鳴らしたが、返事はなかった。一度だけではダメなので、時間を空けて、あと2回押したが、やはり返事はなかった。
「やっぱり留守なんだな」
と思い、そのまま、マニュアル通りに、留守宅に訪問して、商品を表に置いている旨のハガキを扉備え付けのポストに投函し。そこを後にしようとしたが、
「くぅん」
というか細い鳴き声が聞こえた。
松岡君はこのマンションがペット可なのは知っていたので、
「お前も飼い主さんがいなくて、寂しいんだろうな」
とペットに同情していたが、その次の瞬間、
「キャイーンキャイン」
とばかりに、かなり異様な声を挙げた。
部屋の中がどうなっているのかが分からなかったので、何とも言えなかったが、
「犬の上に何かが落っこちてきたのかな?」
という程度にしか思わなかった。
異様な声ではあったが、そのあと静かになったので、気にはなったが、飼い主がいないのだから、配達員の松岡君にどうすることもできない。
後ろ髪を引かれる思いで、その場を去って、エレベーターに向かった。
エレベーターは、8階で停まっていた。
「あれ?」
と、何となく違和感を抱きながらエレベーターを下るボタンを押すと、エレベーターはすぐに降りてきた。
そこには誰かが乗っていると思ったのだが、誰も乗っていなかった。そこで、さらに、
「あれ?」
と感じたのだ。
最初は深く考えなかったが、2回も違和感があったのだから、気にはなっていた。この違和感がどこから来るのかというよりも、違和感の原因に気づかない自分がもどかしかったのだった。
エレベーターで、ロビー階を押して、下まで降りると、さっきと同じように、管理人に頭を下げて、正面玄関から表に出た。
入り口のところにある、自転車の一時置き場から、配達用の自分の自転車を出すと、そのまま走り去っていったのだ。
夕日はすでに西の空に落ちていて、この時間が、夕飯のピークであることを意識していた。案の定、すぐにクーパーの交換手から連絡があり、スマホに送られたデータをもとに、その後も、通常の配達を続けたのだった。
松岡君が、プラザコートで配達が終わったのが、夕方の5時半だった。まだ寒い季節なので、この時間でもすでに夕日は沈んでいる。松岡君がプラザコートを出てから、30分くらいが経った、午後6時頃、消防署に、119番がかかったのだった。
「はい、こちら119番。救急ですか? 消防ですか?」
と電話に出た人が言った。
このあたりの消防は、隣の市との共有で消防署があった。
いずれは、この街も人口が増えてくれば、消防署をこの市に単独で作る必要が出てくるのだろうが、まだ、そこまで住民がいないこともあって、消防は共有していた。
一応、三年前に人工が5万人を超えたことで、市になる要件は揃ったので、すぐに市に昇格した。
最初から市に昇格することを目的として、準備も怠らなかったこともあって、市政を営む体制は最初からできていたのだった。
しかも隣の市は、この街と違って、面積もかなり広い。市制は昭和の半ば、戦後すぐくらいではなかっただろうか。それだけに、ノウハウはしっかりしていた。この街が市政を敷くための手本にしたのが、この隣の市だったのだ。
まだまだ3年目というひよっこに近い市ではあるが、隣に大都市が控えていることで、安心感もあるといってもいいだろう。
「ええっとこちらは、A市にあります、プラザコートというマンションなんですが、どうやら急病人のようなんです。すぐに救急車をお願いします」
と言って、かなり慌てているようだ。
「あなたは?」
と聞かれ、
「私は当該マンションの管理人をしているものです。先ほど、受付に、急病人がいるから救急車をと言われたんです。いってきた人は、今介抱をしてくれているようです」
と管理人は言った。
このマンションは、部屋のインターフォンから、管理人室や、受付に直通の内線を掛けることができる。それが、有人管理人がいる一つのメリットだったのだ。
そのインターフォンが鳴って、話を聞いてみると、そこに倒れている人がいるので、救急車をお願いしたいということだったのだという。管理人は、
「それなら、どうしてこの人が自分で連絡を入れないのか?」
と疑問に思ったが、そんなことを言っている場合ではない。
少なくとも、その声に聞き覚えはなかった。自分が知っている住民ではない。