後味の悪い事件
彼の考え方としては、
「科学者と言えども、母国が戦争をしているのであるから、母国を守るために、協力を惜しまないのが、愛国心ではないか?」
と思っていたのだ。
だから、かたやハーパーボッシュ法で、人類を食糧問題から救いながらも、愛国心の名のもとに、毒ガスという大量殺りく兵器を生み出すのだから、
「どちらが本当の彼なのか?」
ということである。
ひょっとすると、ハーパーボッシュ法というのは、彼にとって、人類の未来というよりも、名声を得たいということと、自分の存在をアピールしたいがためだけの開発だったのかも知れない。
人類のためなどというのは彼の中には微塵もなく、彼はそういう意味においても、
「神なき知恵」
を持った、
「知恵ある悪魔」
だったのかも知れないのだ。
そんな彼のエピソードとしては、彼の奥さんである、クララは、ドイツで初の女性の博士号取得者であった。
しかし、結婚後、彼女には家庭に入らせ、彼女の科学者としての信念や誇りを奪い、ただの主婦にしてしまったのだ。
これは、ハーパーからすれば、自分の妻であろうと、自分よりも名声を持っていることを許さないということで、彼女の台頭を恐れたのかも知れないといえるのではないだろうか?
それを考えると、ハーパーが、毒ガス開発をしていることにクララが意見をすると、聞く耳を持たなかったというのも分かる気がする。科学関係のことで口出しをされたくなかったのだ。特に奥さんではあっても、著名な科学者であるクララからは、奥さんからの苦言ではなく、科学者としての苦言だと思い、ライバルから言われている気がしたのではないだろうか。
だからこそ、あそこまで固執したに違いない。
クララはそれから少しして自殺した。
夫の毒ガス開発に抗議しての自殺だとされたが、実際には、自分の科学者としての才能と、それを伸ばしたい本人の探求心とが、ジレンマとなり、毒ガス開発というよりも、科学者としての意地が、自殺に追い込んだのではないだろうか。
だから、夫のハーパーも、奥さんは自殺したにも関わらず、毒ガス開発をやめないどころか、さらにドップリト開発に浸かっていくのである。
科学者と科学者の、エゴのぶつかりあいが、最悪の自殺という形で表に出た。まわりも分かっていたのかも知れないが、ある意味美談として、
「夫の悪行に抗議して自らの命を絶った献身な奥さん」
ということで、クララの名は残ったことだろう。
確かに当時は、帝国主義社会であり、戦争が起こったことで、国のためということであれば、戦争に協力するのは、ドイツ民族として当たり前だという気持ちも分からなくもない。
だから、彼の考えがすべて間違っているとは言えないところもある。
原爆の投下についても、いまだに半分以上のアメリカ人が、
「正しかった」
と思っている。
それは、
「原爆を使うことで、早く戦争を終わらせることができ、アメリカ兵をこれ以上死なせることがなくなる」
という大義名分があったからだ。
ハーパーにも同じような考えがあったのかも知れない。相手が戦争継続をあきらめるくらいの打撃を与え、戦争をやめれば、お互いに無益な殺生をしないで済むという考えがあったとすれば、彼の考えも分かるというものだ。少し違うかも知れないが、
「死ぬということが分かっていても、少しでも長生きさせるための延命措置を行うのがいいのか悪いのか? 安楽死を許さないのが正義なのだろうか?」
といういまだに答えの出ていないことと発想は同じなのではないだろうか?
それを考えると、ハーパーの毒ガス研究がもたらした結果は悲惨であったが、考え方まで否定してもいいのだろうか? と考える、悪いのは、ハーパーなのか、それとも、戦争を起こしてしまった張本人なのか、これこそまるで、究極の選択をしているようではないだろうか?
そんなハーパーは毒ガス開発を生涯後悔していないという。
世の中には、いろいろな兵器を開発した人がいて、そんな彼らに、科学者としての責任を負わせようとする人がいる、確かに科学者というのは、開発したものに対しての責任があるだろう。
日本の科学者の中には、
「開発をしてそれを実用化させるには、まずその効果同時にマイナス面もしっかり検証し、使用した場合のマイナス面をしっかり使用する人に説明するという、説明責任をともなっているという。説明責任を果たすことなく、責任から逃げた科学者は、その罪と罰に、それからの人生、ずっと苛まれ続けるのだ」
という。
「それが科学者の科学者たるゆえんだ」
とまでいう人もいるのだった。
なぜなら、科学者にしか、メリットとデメリットを証明できる人はいないからで、
「知っていて、それを口にしないのは、犯罪者と同じだ」
という理屈は、一般人なら、誰にでも分かるというものではないだろうか。
逆に理解できない人は、それだけ、問題を抱えているということで、科学者の中にはそういう人は多いかも知れない。
特に、自分の研究をなかなか認めてくれないと考えている科学者はいつも孤独であり、まわりは、いつでも敵になりうるという考えを持っていれば、それも仕方のないことなのかも知れない。
自分も大学で工学の勉強をしていると、このあたりの倫理的問題は、うるさいくらいに講義では言われる。
確かにその通りだと思うのだが、科学者としての気持ちになると、ハーパーや、オッペンハイマーなどの科学者の気持ちも分かるのだ。
だが、開発したものに対して、最後まで責任を持たなかった科学者の末路というのは、次代に翻弄されることになってしまうのも、必至だったといえるだろう。
初代学長の言いたいことはよく分かる。
神というのは、抽象的な言い方だが、要するに、
「道徳的、倫理的なモラル」
ということになるのだろう。
それを持ち合わせていれば、使用する人間に対して、そのメリット、デメリットを示すことで、選択の幅を与え、言い方は悪いが、そこまですることで責任を全うしたといえるのではないだろうか。
そこまでしていれば、まわりはきっと、彼が責任回避をしても、擁護する人間もいるだろう、何もしていないから、悪者にしかならないのだ。
今でこそ、この考えは当たり前のことのように言われているが、当時の帝国主義時代であったり、軍国主義のような。自分たちから見れば、異常な精神状態の時代で、そこまで考える方が稀だったのかも知れない。
何しろ、戦争に行って、敵前逃亡は、重大犯罪であったり、戦争に反対し、反対意見を口にしただけで、投獄され、拷問を受ける時代だったのだ。
それも、戦争継続のための、戦意高揚という意味では、ある意味仕方のなかったことなのかも知れない。
だが、本当にそうなのか?
「今後の歴史に今こそ考えなければいけない時ではないか?」
という人がいるが、果たしてその通りではないかと、松岡君は考えていたのだった。
戦争というのが、どこまで行っても、一度起こしてしまうと、決着は決してつくものではない。小競り合いでは着いた決着も、そのまま怨念となって、将来では、報復されかねないというのは、歴史が証明しているではないか。