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起きていて見る夢

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 人間や動物の脳がどのようなメカニズムになっていて、フレーム問題を無意識に解決できているのか、解明されていない。あくまでも、ずっと、解決されないまま、ロボット開発が考えられているのだが、このフレーム問題が解決できないとロボット開発は、頓挫したまま、先に進まないのだ。
 そういう意味で、ロボット開発が進まない原因はここにあるのだ。
 タイムマシンにしても、ロボット開発にしても、これは人間が神の領域に近づこうとすることで、そこにはどうしても超えることのできない結界があるのかもしれない。
 旧約聖書の中にある、
「バベルの塔」
 の話のように、万が一、開発に成功すると、
「神の裁き」
 があり、
「裁かれた人間がどうなってしまうのか?」
 という、今度は宗教的な話になってくるのだ。
「バベルの塔」
 の場合は、塔は完全に崩壊し、神の力にて、人類がそれまで共通で喋っていた言語を、それぞれの民族ごとの言語に分けることで、世界各地に人間が分布していくということになったという。
 それが、人間が世界各国に分布しているということを証明している話だったのだが、今度、
「第二のバベルの塔」
 として、タイムマシンやロボットを開発してしまうと、何の証明として、人類にいかなる災いが降りかかるか分からない。
 そういう意味で、ロボット開発とタイムマシンは、諸刃の剣であり、紙への冒涜に対しての挑戦なのではないだろうか。
 宗教を信じていない人でも、ロボット開発と、タイムマシンの考え方には、同意することがあり、
「解決できない、人類最大で、最後の課題だ」
 と思っているのではないだろうか?
 それは、
「開発してしまうと最後だ」
 という発想からきているものであり、この発想が、世の中に及ぼすことが、人類の滅亡に近づいていることなのかも知れない。
 科学というのは、人類滅亡を自らで選ぶことにもなるということを、かつての世界大戦で知ったではないか。
 そもそも、
「戦争を早く終わらせて、自国民の被害を最小限に食い止める」
 という目的で開発された原爆。
 もっともこれは建前で、本当は、
「ナチスドイツが原爆を開発している」
 という妄想が、アメリカを原爆開発に走らせたのだ。
 そういう意味では、
「アインシュタイン=シラードの手紙」
 というのは、
「悪魔の手紙」
 だったのかも知れない。
 そこで、人類は、一発の爆弾で、一つの巨大都市が廃墟になるような爆弾を手に入れた。しかも、その後も放射能という二次災害のおまけまであるのだ。
 それが、東西冷戦を引き起こし、キューバ危機にて、世界を巻き込む、
「全面核戦争の恐怖」
 を身近なものとして知ることになった。
 完全に、
「神なき知恵は、知恵ある悪魔を作るものなり」
 という言葉そのもので、
「どんなに科学が発展しようとも、そこにモラルがなければ、どんなに知恵があっても、やつらは、悪魔でしかない」
 ということである。
 人間は、そんな知恵ある悪魔なのだろうか? それとも、
「血を吐きながらマラソンを走り続ける」
 そんなおろかな動物なのだろうか?
 話は逸れたが、人間は、核開発という、
「パンドラの匣」
 の一つを開けてしまった。
 今目に見えている、
「パンドラの匣」
 があと二つある。それが、
「ロボット開発」
「タイムマシン」
 である。あくまでも見えているものだけなのだが、今後科学が発達するにつれば、どんどん出てくるかも知れない。これこそが、
「知恵ある悪魔」
 を作り出すことになるのかどうか、その大きな問題なのではないだろうか。
 当時は、まだ昭和の頃、コンピューター開発もまだまだで、やっと、用紙に文字を打てるようになった時代だった。
 1960年代の特撮などを見ていて、科学の最先端を走っているはずの、地球防衛軍基地で、コンピューターがはじき出した結果を出してくる装置が、パンチ穴の開いた紙テープだというのが、明らかな時代錯誤に思えた。
 当時は違和感なく見ていたが、今見ると、違和感以外の何物でもない。
 しかし、何に違和感があるのか、すぐに分かるものではないだろう。それだけ、頭が固くなっているのかも知れないと思うのだった。
 科学が神への冒涜という考え方と、紙一重なのは、
「長所と短所」
 という考え方に似ているのかも知れない。
 松阪の大学時代は、そんなことばかりを考えている青年だった。当時はどこまで解明されていたが、今となっては忘れてしまったが、当時の本や雑誌で、そういう情報を得るのが好きだった。
 当時は、一般的にパソコンなどは普及していない。パソコンなどという名前も存在しなかった時代である。だから、何か疑問があれば、今のようにネットで検索するなどということはできなかった。
 そもそも、どの本を見れば、調べたいことが載っているかということすら分からない。まずは、広辞苑などで調べてみたり、本屋や図書館で、専門書を調べてみる。本屋に、検索機能があるわけでもないので、本棚を実際に見て、上から本の背を舐めるように見て探すしかないのだった。
 少々の都市にいけば、大きな本屋もできている。その頃になると、大きな通りなどに、駐車場付きの本屋もできてきて、チェーン店かしていた。雑誌なども豊富で、結構利用者が多かったと記憶している。意外とそういう本屋に、知りたいことを書いている本屋があったりもしたものだった。
 当時は、まだレコードが存在した時代で、レンタルレコードの店などもあった。
 一時期、著作権の問題などでもめたりしたが、それも著作権法が確立されたりしたことで、著作権にはうるさくなったが、レンタル系の会社も、その法律さえ守っていれば、営業ができるという、市民権を得ることができたのだった。
「レコードとカセットテープ」
 これが、その時代の音響を支えていたのである。
 昔のレコードやカセットには、
「A、B面」
 という両面が存在し、どちらも、ひっくり返して聞いていた。レコードの針を落とした時に響く、
「ブチブチ」
 という音、あれが懐かしいと思っている人も少なくはないはずだ。
 自分で、レコードから好きな曲を編集して。オリジナルカセットを作るのも、流行りだったものだ。
 カセットテープを歩きながらでも聞けるという画期的な、
「ポータブルカセットプレイヤー」
 が出たのも、その頃だったのではないだろうか?
 それを思い出すと、皆ヘッドホンをつけて歩いていたのを思い出す。今のように、耳に当てる形のイヤフォン形式ではなく、頭から掛けるタイプのものだった。今でも、たまにファッションとしてつけている人がいるが、昔のがそのまま伝承されているのかどうか、ハッキリとは分からなかった。
 また、時代的には大きなブームを呼んだものが数々出てきた。一世を風靡しただけで、下火になっていったもの、それを元祖にして、今でも形を変えながら、生き残っているものさまざまである。
 一世を風靡したものとして記憶にあるのが、
「テクノポップ」
 という音楽ジャンルであった。
 シンセサイザーなどを駆使した、最新の音楽で、今でもあの頃の音楽を聴いている人も多い。
 そして、その当時を元祖にするものが、
作品名:起きていて見る夢 作家名:森本晃次