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起きていて見る夢

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「楽しい時はあっという間に時間が過ぎていき、苦しいことや悲しいこと、そして楽しいことを待っている時などは、時間がなかなか過ぎてはくれない」
 ということだった。
 逆に言えば、
「楽しい時は時間が早く過ぎるが、それ以外の時はなかなか時間が経ってくれない」
 ということである。
 時間は、誰にとっても、皆に平等なのに、その人の感情だけで、こんなに違ってくるということを日ごろから考えていたので、自分の書く小説に、時間に対しての感覚ということをテーマにしたりする話が多かったりするのだ。
 だからといって、それがすべてSF系というわけではない。
「SFの発想をエッセンスにしたミステリーがあったとしてもいいのではないか」
 という考えもあることから、タイムパラドックスについて、考えるようになったのも、今から思えば、必然的なことだったのかも知れない。
 そんなことを、りほを目の前にしたその時も、頭のどこかで考えている自分がいて、意識は、頭のど真ん中で考えているような気がしたくらいだった。
 懐かしさの走馬灯が、頭の中で巡っていた証拠だといえるのではないだろうか。
「りほも、似たようなことを思っているのかも知れない」
 と、頭の中で考えていた。
 楽しいドキドキした時間であったが、その分、どこかで頭痛のようなものが起こっていることにその時、気づいていなかったのだ。
「その頭痛が、瞬時の記憶喪失を呼び起こし、走馬灯を作り出しているのかも知れない」
 と感じていた。
 出会った瞬間、いろいろ思い出しながら、思い出した瞬間から、
「別の時空を見ることができたら?」
 というまるでパラレルワールドを引き起こしたような気がしてきた。
「可能性というのは、無限にあるんだ」
 と考えると、パラレルワールドが、
「もう一つの」
 という考えだというのはおかしい気がする。
 なぜなら、言葉に、
「パラレル」
 というワードが入っているではないか。
 ダブルであったり、アナザーという言葉ではなく、マルチやパラレルは、複数のものだからである。特に、パラレルともなると、果てしなく広がったものであることを考えると、無限という発想に近いのではないかと考えるのだった。
 さらに、考えていることというものが、
「循環している」
 という発想なので、何度も同じところを潜っているつもりだとしても、それは、まったく同じところを巡っているわけではないということだ。
 これは以前小説に書いた発想であるが、
「同じ日を繰り返している」
 という内容のものを書いたことがあったが、普通に考えれば、同じ日を繰り返すというのは、実に不思議なありえないと思っていたが、逆に、
「毎日が、繰り返しているという発想に間違いがないと考えると、少しずつ違っている毎日、今の普通に前に進んでいるという毎日の方が不思議なのではないかと思うのだ」
 というところから始まった。
 いろいろな考え方をしていく中で、
「循環」
 という発想が、大きなキーワードをなしているのだとすれば、一日が終わって、翌日になって、その一日は前の日と違うという発想が正しく、その発想のために、
「明日という日は、少なくとも今日よりも少しずつでもいいから、進歩した日であるように努力すべき」
 などという発想とは矛盾しているのではないだろうか?
 人間は、前に進むもので、進歩していくものだという発想は、
「必ず、明日がくる」
 というところから来ているのか、それとも、
「前に進む進歩を手に入れるために、明日というものが創造され、明日が来るのを当たり前のように考えているのではないか?」
 という、二つの発想が生まれてくる。
 後者は、考えてみれば、画期的な発想であり、普通は誰も考えないと思うことで、小説のネタになるのではないかと考えたのだった。
 なんと言っても、循環という発想が、すべてに影響している。それは、上から見れば、循環しているように見えるが、実は立体になっていて、まるで螺旋階段のようになっているのだとすると、
「明日が必ずやってくる」
 という発想もありなのではないか。
 つまり、最初は、
「同じ日を繰り返している」
 という発想が主流だったが、そこに立体をイメージして、螺旋階段を創造することで、今のような、
「明日は必ず来る」
 という発想になったのではないだろうか。
 これが、二次元から三次元への発想で、そこに時間という概念が加わることで、四次元の発想が息づいてくる。そうなると、そこに初めて、時空や時間軸を理解することができて、
「明日は必ずやってくる」
 という発想に、時間軸を含めた発想となり、それが、今度は、定説になってくるのではないかというような話であった。
 それを少し物語にした話だったのだが、自分の小説が、どうしても堅苦しくなり、理屈っぽいものになってきていたのだ。だが、
「そんな小説があってもいいではないか?」
 と開き直っているのも事実だった。
 その日のデートは、まるでデジャブだった。
「前にどこかで見たような内容だ」
 というものであり、ただ、それが、
「同じ日を繰り返している」
 という発想を思い起こさせたのだということに、最初は気づかなかった。
 りほが口にするセリフの隅々まで、
「どこかで聞いたような」
 と感じるのだ。
 そんなに記憶力がいいわけではなく、
「どこかで」
 としか覚えていないような曖昧なことなのに、それをセリフの一字一句まで覚えているわけもない。
 それなのに、同じだったと感じるのは、覚えているからだという意識とは違うものなのではないだろうか。
 つまり、デジャブというものが、
「以前に経験したと思うことを思い出しているからだ」
 というのがそもそも違っていて、
「未来に起こることを予知夢としてごく最近見たのだ」
 ということであれば、セリフも情景も自分が創造したものなので、意識の中に残っているとして、不思議でも矛盾でもないのだ。
 創造というのは、
「自分が一から作り出したもの」
 であり、想像というものは、意識がその前後を忖度し、イメージしたものだといえるのではないか、
 だから、意識は自分の意志というよりも、曖昧なものだと考えていいのだと思う。だから、その時の情景を思い浮かべるのは、
「想像」
 であり、
 相手が感情を込めたと思う言葉は、
「創造」
 なのではないかと考えるのであった。
 だから、デジャブというのは、
「創造なのか? それとも想像なのか?」
 のどちらかではなく、そのどちらも含め、それぞれの役割で考えられたものが、一つの感覚を生み出すといえるような気がするのだ。
 その時のデートも、自分が思い描いたことがどのままであったという感覚と、覚えているという感覚がそのままであったのとは、それぞれの、
「創造と想像」
 が、都合よく、うまく噛み合ったからなのではないだろうか?
「今日のデートは最高だな」
 と思ったのは、最初は、
「ああしよう、こうしたい」
 と思っていたはずなのに、それ以前に、目の前に現れた情景が、すべてデジャブだと思えたことが、自分の計画をすべて台無しにしたのだ。
 それでよかったと思っている。
作品名:起きていて見る夢 作家名:森本晃次