起きていて見る夢
年を重ねていくうち、次第に限られてくることを感じてくると、
「ささやかだ」
と思っている夢が、実は想像以上に難しいことだったのだということを知るだろう。
しかも、それもいきなりではないかと思う。
徐々に感じてくるのであれば、まだまだ切羽詰まった感覚はなく、
「気が付けば、もう手遅れだった」
と思うに違いない。
もちろん、そんなことを感じることができるだけ、つまりそんな年齢になるまで小説を書き続けられればいいと思っている。
まずは、書き続けられることが目標であり、その時に何を考えているのかということを、感じてみたいと思っている。
それを、
「ささやかな夢」
と言ってもいいのではないだろうか。
ささやかと感じることは人それぞれ、しかし、松阪は誰にでもあることがささやかなことだと思うようになっていた。
りほの秘密
りほとの再会を果たした松阪だったが、りほが以前と少し雰囲気が違っていたことに戸惑いがあった。今までは可愛い系だと思っていたのは、キレイ系に変わっていたからだ。イメージが違ったからなのか、少し自分の中でリアクションがいつもと違うことが分かった。しかも、落胆していることが分かっただけに、どうしていいのか分からなくなっていた。
思い出すのが小学生時代、確か三年生の頃だっただろうか。好きだった女の子がmイメージチェンジしてきたことがあった。
お互いに、物静かなタイプで、それがゆえにお互いに惹かれたのかも知れないが、
「相手の気持ちは手に取るように分かる」
とまで思ったほどだった。
相手のことが分かるのは、
「普段から、自分のことを隠そうとしてしまうからだ」
と思っていた。
恥ずかしさから、自分を表に出そうとしないと、同じように引っ込み思案の人の気持ちが分かる気がしてくる。それはむしろ、引っ込み思案な自分だからこそだという思いと、
「俺が分かってなければ、他の人に分かるはずはない。何しろ、これだけが取り柄と言ってもいいくらいだから」
という、何か矛盾した考えだが、雰囲気とは違った内面を持っていることで、それが自信につながるというのは、往々にしてあることではないかと思うからであった。
小学生の頃、その子を見ていて、雰囲気から来るその顔が実に自分にとっての理想通りであり、その理想がもう一度、雰囲気に引き戻され、そこで彼女の性格を確定させるのだった。
だから、小学生の頃から、
「見ただけで、相手の性格が分かる気がする」
と思っていた。
ただし、これは女の子にだけ言えることであり、小学生の頃は分からなかったが、中学生になって思春期になると、
「これが、異性に対しての感情というものなのだろうか?」
と、感じるようになったのだ。
小学生の頃は、異性への感情がなかったので分からなかったが、もし、あの頃、異性とう意識があれば、もっと違った感情になっていたことだろう。
彼女の雰囲気が変わったことで、明らかに落胆してしまった松阪は、その感情を表に出してしまい、彼女の気持ちを傷つけてしまったに違いない。
彼女から遠ざかってしまったのは、本当は、落胆してしまった自分を、彼女が嫌いになったのではないかという思いからだったが、たぶん、何も知らないまわりは。
「松阪が、相手を傷つけたんだ」
と思われていたに違いないと思った。
実際に、その頃から、まわりの目の厳しさを感じた。
女の子からの視線の冷たさに、動揺してしまい。さらに、女の子というものが分からなくなってしまった。
それはそうだろう。
お互いに引っ込み思案な二人が仲良くなった。それが、彼女が髪型を変えてきたというだけで、明らかに遠ざかってしまった男に対して、
「あの男は、彼女の顔だけがよかったんだ」
と思われても仕方がないだろう。
そんな態度を、
「露骨だ」
ということは、思春期ではない女の子であっても、察しが付くというものだ。
しかも、小学三年生というと、女の子の発育は、そろそろ芽生えてくる頃だ。
「男に比べて、女性の方が、子供の頃は、発育が早い」
と言われている。
背が高い女の子も多く、体格も明らかに男の子よりも、発達しているのがよく分かる。すでに大人びた女の子もいるくらいだ。
松阪は、そんな女の子たちを意識して怖がっていた。その視線が怖いと思っていたのだ。だからこそ、引っ込み思案な彼女のことが気になったのかも知れない。彼女に関しては、発育を意識することもなく、完全に自分の味方だという意識があったのだった。
そんな昔のことを思い出してしまっていた松阪のことを知ってか知らずか、りほは何も分かっていないかのように微笑んでいた。その表情は素朴であり、ただ懐かしいと思っているとしか思えないほどだった。それを見た時、ホッとしている自分がいることに、松阪は気が付いたのだった。
「本当に久しぶりだね」
一年ちょっとの期間をかなり長かったと思っていた松阪だったが、
「ええ、そう? 一年ちょっとしか経っていないわよ」
とりほが言ったが、それを額面通りに受け取った松阪だったが、りほは、そうではなかった。きっと、松阪が少しでも違った言い方をしていれば、
「ちょっとしか経っていない」
というような表現はしなかっただろうと思うのだった。
松阪にとって一年という期間をどう考えるか。それは、
「近いものから見る距離と、遠くから見る同じ距離とでは錯覚からなのか、違って見える」
という感覚だったのだ。
時間という概念をっどう表現していいか分からない松阪は、時間を距離で頭の中に思い浮かべたりしていた。
この感覚は、一日と、一年という感覚に似ている。これは、昭和の時代に子供時代から思春期と過ごしてきたからこそ感じるものであって、キーワードは、「アナログ時計」であった。
一日は、24時間だが、それを表すのに、アナログ時計では、12の時間と刻んだ形式になっている。もちろん、午前と午後があるわけなので、一日に時計の長針は、二回転するわけだが、「12」という数字は、一年の月の数に匹敵する。
つまりは、一年という季節を、アナログ時計をイメージすれば、考えられるというわけで、
「時間をイメージする時だって、アナログ時計を頭に思い浮かべるのだから、一年のそれぞれの月だって、時計をイメージすれば、簡単に考えられるのではないだろうか?」
というものであった。
そのことを考えていると、
「一日だって、一年だって、秒という最小単位を使って、規則正しく時を刻んでいるのではないか」
と考えていたのだった。
だから、松阪は時間を大切にしようと思っていた。ただ、大人になるにつれて、
「感情によって、時間の感覚がまったく違ってくる」
ということが分かるようになってきた。
それは明らかに大人になっているからであって、それだけ、
「感情の起伏が激しくなってきた」
というべきか、
「その起伏にやっと気づくようになってきたからだ」
というべきなのか、自分でもよく分かっていなかったが、明らかなこととして分かっているのは、